大坂城再建で使われなかった「残念石」、400年経て大阪・関西万博でトイレの柱に https://yomiuri.co.jp/expo2025/20240119-OYO1T50010/
何という愚行、歴史に対する狼藉と思わざるを得ません。さすが維新の万博。「残念石」は、使われなかったことこそが歴史的価値なのです。それを万博のため弄るのは、史跡破壊と同じです。
大坂城再建で使われなかった「残念石」、400年経て大阪・関西万博でトイレの柱に https://yomiuri.co.jp/expo2025/20240119-OYO1T50010/
何という愚行、歴史に対する狼藉と思わざるを得ません。さすが維新の万博。「残念石」は、使われなかったことこそが歴史的価値なのです。それを万博のため弄るのは、史跡破壊と同じです。
能登の震災に関して、ボランティアに行くことを必要以上に貶す言説が見られ、間接的に今次震災の行政の不手際を糊塗するようになっている(十日経っても孤立状態は、東日本大震災よりひどい?)のは、「何もしなくても俺が偉いと思いたい」という精神性の(少なくともネットでの)瀰漫を示しています。
これはネトウヨの精神性と通底していると思っていて、ネトウヨは「俺は日本人だから(何もしてなくても)中朝よりエラい」という差別感情が最大の衝動だと私は考えています。自分が何もしてなくても、何かしら活動している人を冷笑することで、自分が「冷静」と思い上がるのも同じです。
これは極めて社会にとって有害な思想で、すでに何もしないことを正当化するには何でもするようになってしまっていて、NPOなどの非政府団体の活動を攻撃する例まで見られています。そこまでいかなくとも、「お上」公認以外のことを冷笑する風潮は、世のために何かを思う人の手を止めてしまいます。
遅ればせながら新年のご挨拶を申し上げます。とはいえおめでとうといっていられない新年の始まりで、なんとも言葉がありませんが、できることを着実に進めていくしかないと思っております。本年もよろしくお願い致します。
【FUCK①】生活支援員が観た映画「月」評~前編~ https://note.com/tokyonitro/n/n278f1ebb7950?sub_rt=share_pw
映画を見ていない私にも、この映画――そして綺麗ごとを冷笑したがる昨今の風潮の問題点がヴィヴィッドに心に響く文章でした。映画は見ないで、この文が広く読まれることを願います。
映画で醜く描かれている障碍者施設は、実際には障碍者の人権(綺麗ごとを冷笑したがる徒輩が蛇蝎のごとく嫌う言葉)を擁護するためにさまざまな努力をしているのです。もちろんそれが理想的とまではいえないにしても、理想に近づくために努力を積み重ねること、これが一番大事なのです。
ひろゆきに代表される「冷笑的現実主義者」は、理想が現世で実現されないから「お花畑の綺麗ごと」と嘲笑することで、達成できなくても少しでも近づくために努力するという人間の生きる意味自体を、無意味化してしまいます。こうして何の努力もしない自分を「現実的」と誇ることこそ、現代の宿痾です。
理想が実現した世はユートピアであって、決して地上に現出することはないかもしれないけれど、少しでもそれに近づこうとする努力こそ大事なのです。それを最初から諦めては、生きる意味もなくなります。積読本だった、なだいなだ『権威と権力』を読んでつくづくそう感じます。
歴史修正主義は人権問題である、と私はかねてから考えていますが、それを証する一事例と本件も捉えられそうです。安倍政権下で歴史修正主義は猖獗を極め、人権は軽んじられています。自分の人権が巻き添えを食うリスクを冒しても、「目下」の人権は認めない。そういう連中が跋扈しています。
今回のクソみたいな件で一つだけよかったのは、山中恒さんがお年にも関わらずコメントを出せるほどお元気だと知ったことでした。山中さんの体験記でもある『子どもたちの太平洋戦争』は、教育勅語に支配された教育現場がいかに不条理かを描いた、忘れられない一冊です。
そういう教育勅語の歴史的文脈を無視して、片言節句を都合よく切り出してコラージュして、何か言った気になる。その当人には何の思想も理念もないのではないでしょうか。そのような切り取り方は、そもそも井上や元田に対してすら失礼ではないでしょうか。一から十まで滅茶苦茶です。
Wikipedia 情報ですが、松井市長は被爆者の医療費の要求に対し「『くれ、くれ』という権利要求みたいな気持ちではなく、『ありがとう』の気持ちを持つことを忘れないように」とほざいたそうです。天賦の普遍的な人権観念に理解が欠けていると考えても良さそうです。
昔はよかった、権利権利といいたてず偉い人や目上の人に従う「秩序」があった、というのが松井市長の心根にあるのでしょう。各人の「分」を守るべきという身分制的発想です。しかしそれは現行憲法の理念に反します。そこで教育勅語を切り継ぎして、歴史を捻じ曲げてまで屁理屈を拵えているのでしょう。
「自分が思うにそれは当時、江戸期から明治期に移る中で、アヘン戦争が起こるとか、ヨーロッパに中国がどんどん侵略されている。それに負けないような国家にするためには、民主主義をちゃんとしないと西洋に負けるという議論が出た。だけど、民主主義の使い手を天皇が全部取り仕切るようなやり方をしたから、日本が戦争国家に突入した。そういう説明をしています」
これは端的に言って歴史的事実に反します。松井市長は自覚的かどうかは分かりませんが、歴史修正主義の範疇に入り込んでいます。
教育勅語の起草者である井上毅や元田永孚について私は専門ではありませんが、彼らが「民主主義」に親和的であったとは到底思われません。まして「民主主義の使い手を天皇が全部取り仕切るようなやり方」とは意味不明です。まさか元田が天皇親政運動の担い手だったこと!?
明治の政治史は私は詳しくはないですが、宮中で元田らによる天皇親政運動があり、それに対して憲法を定めて天皇は政治と距離を置く、のちの言い方をすれば天皇機関説的な伊藤博文らの方針が勝った、というのは定説だと思います。元田の考え方は明治時代ですら過度に保守的といっていいのでは。
断片に切り出せば悪いことではないようでも、それには文脈があり、すべてが天皇のために帰されている以上、その徳目の価値は現代ではもはやないのです。これは「ナチスはいいこともした」という、中二病的言説とパラレルと言っていいでしょう。個々の政策だけ見れば良さそうでも、文脈があるのです。
「多面的に考える」という口実をもとに、とうてい容認されない、事実関係が誤った、あるいは倫理的に破綻した考えを捻じ込んで、正統的な説と並べることで、それと同等の価値を持ったそれなりに正しそうな説に見せる、という詐術は歴史修正主義はじめありふれた手口です。ポストモダンの鬼っ子です。
道徳は自分自身でその意味を認識して守るのでなければ、単なる権威主義に堕してしまいます。教育勅語の徳目は、個別には「いいこと」のようにも見えますが、それが「天皇のためだから守れ」という権威主義である以上、自立した個人を建前とする民主主義とは全く相いれないのは自明です。
それほど漢文の知識がなくても教育勅語が民主主義(=主権在民)と相いれないことは読めるだろうし、教育勅語がどう読まれどう解釈されてきたか(これを理解するのに漢文の知識は要らない)をちょっとでも知ればそんな世迷い事は言えない筈なのに、それを開き直るこの市長の厚顔無恥たるや。
それにしても、「どっかが悪かったから全部悪いとか、どっかがよいから全部いいと判断しないで、多面的に考えるということをやっていかないと、いろんな意見があったときに対応できなくなってしまう」とは一見もっともなようでいて、みずから価値判断する勇を欠き、古びた権威に依存しているだけです。
有料記事がプレゼントされました!12月21日 23:33まで全文お読みいただけます
広島市長、教育勅語に「民主主義的な発想ある」との見解 研修で引用 https://digital.asahi.com/articles/ASRDM6VHPRDMPITB00Y.html?ptoken=01HJ3TB4X2F0G0EQQKSDVPWR5J
呆れて言葉が出てこないですし、論外の屁理屈未満を、いい年をして振りかざす人間には、言葉で説得はできないでしょう。
教育勅語は文語文で難解な語彙に満ちていますが、それでも、具体的に挙げられている1ダースほどの徳目が最終的にかかるのは「以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」なのは自明です。道徳を守るのは自分のためでも人類のためでもなく、どころか日本人や日本国のためですらありません。天皇のためなのです。
教育勅語は明治時代ですら国際性に欠けるという国内からの批判があり、西園寺公望が「第二教育勅語」を構想したもののお蔵入りになった経緯があります。コンミューンのパリの空気を吸った西園寺には、あまりにも視野が狭いものに見えたのでしょう。西園寺が死んで大日本帝国は5年持ちませんでした。
で、私が呆れたのは、平山先生が芸能事務所に所属したのはいいとして、その売り文句が「戦う歴史学者」だということです。いったい何と戦っているのでしょうか?率直に言って #どうする家康 の視聴率は不振ですが、まさか視聴率と戦ってるのですかといいたくもなります。
昨夜最終回だった「どうする家康」、SNSを検索するとほとんど絶賛ばかりで溢れていて、正直違和感があります。昨年の『鎌倉殿の13人』のような、すごいものを見せられている……という緊張感がまるでなく、新しさを出そうとして滑ったような感が個人的にはあります。あと最終回の後半(鯉)は蛇足では。
ところで、そういった #どうする家康 の問題の多くは脚本と演出にあって、時代考証自体は最近の説も積極的に取り入れていたそうですが、ただ私の知り合いの間では「時代考証の平山優先生がツイッターで他の歴史家を攻撃したり、アンチを叩いてイキっているのは問題では」との指摘がありました。
私は平山優先生のことはよく存じ上げないのですが、呉座さんとかつてはツイッターの「中世史クラスタ」の一員だったかと思いますので、ネットの使い方には(人のこと言えませんが棚に上げて)正直懸念を覚えてしまいます。ああいうクラスタの存在が、呉座さんを誤らせた一因と思うので。
権力との闘いといえば、日本でもっとも著名なのは、教科書裁判の家永三郎先生でしょう。他にも、日本の戦争責任をめぐる歴史研究をされた先生方は、心ない世間の―時には権力者の―圧力と戦い続けてこなければならなかったのです。
田野先生のように「戦う歴史学者」といえば、歴史修正主義との闘いが映画になった、リップシュタットが今なら挙がるでしょう。ホロコースト否定論者のアーヴィングに完勝したけれど、莫大な訴訟費用が掛かり、支払いを命じられたアーヴィングは破産して踏み倒したとか。
歴史修正主義は世界にはびこっており、とりわけ権力者までそれに接近している日本では、その戦いは切迫したものです。そこで考えれば、日本学術会議任命拒否問題で権力に攻撃された歴史学者の加藤陽子先生もまた、権力者による歴史修正主義的策謀の犠牲者といえるのではないでしょうか。
加藤先生は任命拒否事件発生後、学術会議の連携会員になるという道も断られ、断固戦う姿勢を見せておいでです。仄聞するところでは、事態を後世に伝えるため、記録を丹念にとっておられるそうで、これこそ歴史学者の戦い方なのだと思います。
いまツイッターで、歴史学―のみならず倫理の問題にも通じると思うのですが―のためにもっとも戦っておられる日本の歴史学者は、間違いなく田野大輔先生です。小野寺拓也先生との共著『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』を世に問い、危険な相対主義と戦っておられます。
田野先生のTLを一瞥すれば、同書出版から半年近く経った今も、「ナチスを絶対悪と決めつけるのは一面的だ」というような、相対主義をはき違えたポストモダンの鬼っ子たちと日々戦っておられるのが分かります。次々デマ潰しに駆け回る田野先生は「火消し屋モーデル」を彷彿とさせます。
私など面倒くさがりなので、そういう連中は「悪とされるナチスすら『是々非々』で評価できる俺カッコイイ」という中二病でしょ、で終わらせてたくなるので、田野先生には頭が下がります。でも、まさに日本ネット界の中二病の伝説が「尊敬する人:ヒトラー」だったわけで。
平山先生の「戦う歴史学者」の売り文句はポニーキャニオンが考えたものでしょうが、率直なところ、マルク・ブロックや藤原彰をはじめとする偉大な先人のことを考えると、安易に名乗れる称号ではないと思わざるを得ません。実際やってることがドラマのアンチとのネットバトルでは……。
私のような三流の下っ端研究者で、あんまり論争にならなさそうな(マニアは多い)鉄道史という長閑そうな分野をやっていても、「日本は植民地にいいことした、鉄道敷いた」といった妄言には反論せざるを得ず、戦わざるを得ない状況に置かれているといえ、それを思うといささかその称号は考え直した方がいいのではと思うのです。
まさに戦争に参加した「戦う歴史学者」といえば、世界史学史上もっとも偉大な例は、フランスのマルク・ブロックでしょう。アナール派の創設者の一人として名高いブロックは、第二次大戦中ナチへのレジスタンスに参加し、最後は逮捕されて銃殺されます。
ブロックの盟友だったリュシアン・フェーヴルが書いた歴史論で、ブロックとの回想も綴られた本のタイトルは、まさに『歴史のための闘い』です。その情熱には、今読んでも圧倒されるものがあります。
日本の戦争指導に対する責任を問う研究で、もはや古典といえるのが藤原彰先生の『飢死した英霊たち』です(最近文庫化したんですね)。こういった研究に、やれ「自虐史観だ」「日本人のくせに日本が嫌いなのか」といった声は絶えませんが、愛すればこそ批判もするのです。
で、藤原彰先生はまさに「戦う歴史学者」でした。というのも、戦時中は将校として大陸打通作戦に参加し、みずから先頭に立って突撃して負傷されています。その経験が戦後、日本の軍事史研究に藤原先生を向かわせたといってもいいでしょう。
ここに「正義」とは何か、という普遍的な問題が顔を覗かせています。戦争という過酷な運命に苦しめられた人びとの姿を後世に伝えることは、上司の指示に従う以上の「正義」であると信じた人がいたのです。そのことが、今の私たちにかけがえのない教訓となっていると感じます。
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