清沢洌 #暗黒日記 の印象に残った箇所を時系列で抜粋しよう。
四月二十四日(土)
日本にては開戰の文書も発表されず、これら俘虜の問題などについても、一切国民に知らさない。そして、新聞は米国の祕密主義を攻撃している。日本の民衆の知識はこの程度のものだろうか。そうだとすればダメだ。
來るべき新しい時代には、言論自由の確保ということが――個人の名誉に対する不当な毀損に対しては嚴罰を條件として――政治の基調とならなくてはならぬ。
清沢洌 #暗黒日記 の印象に残った箇所を時系列で抜粋しよう。
四月二十四日(土)
日本にては開戰の文書も発表されず、これら俘虜の問題などについても、一切国民に知らさない。そして、新聞は米国の祕密主義を攻撃している。日本の民衆の知識はこの程度のものだろうか。そうだとすればダメだ。
來るべき新しい時代には、言論自由の確保ということが――個人の名誉に対する不当な毀損に対しては嚴罰を條件として――政治の基調とならなくてはならぬ。
七月十四日(水)
物を知らぬ者が、物を知っている者を嘲笑軽視するところに、必ず誤算が起る。太平洋戰爭前に、国際事情に精通している専門家は、相談されなかったのみではなく、一切口を封じ込められた。
八月一日(日)
僕は日記をつけていると言うと、島中君「危いぞ」という。中央公論社の出版物を警視庁で持っていったが、その中に馬場恒吾君や僕のものもあったと。僕、この日記をつけながら、そうした危惧を感ぜざるを得ず。ただ、僕の場合は「現代史」を後日書くために記録をとどめ置かんとするに過ぎず。
八月五日(木)
久しぶりに雨。
先ごろの軽井沢の予の家に來た労働者いわく、「戰爭なんかどうしてやるんだろう。こんな戰爭を始めさせたルーズベルトや蒋介石は怪しからん野郎だ。あの二人をなんとかして殺してしまえないか」と。戰爭勃発がこの二人の責任だと確信している一般の日本人の考えの代表的なものである。
六月二十四日(木) 同じ高田氏のところに壯年団がきて、レコードや本で英米的なものは、全部出せと言った。さすがに「どれどれがいけないのか」と言って、一部を保存した。銅、鉄は佛壇の燈明まで出した。土橋氏のところでは、五百貫も出したとか。いずれも実話である。老人連中は、「行き過ぎだ」と非難するが、どうにも仕方がない。
七月六日(火)
有沢広巳は兄から金を出してもらって、浅川に三反の畑と山を買い、百姓家を改造して自作農をやることになった。それは來るべき混乱と革命に対する恐怖からである。
四月三日(月)
日本人は戰爭に信仰をもっていた。日支事変いらい僕の周囲のインテリ層さえ、ことごとく戰爭論者であった。小汀利得君も、太田永福君(富士アイス専務)も、そうであった。事実、これに反対したものは、石橋湛山、馬場恒吾両君ぐらいのものではなかったかと思う。今後の戰爭は戰爭信者に対する何よりの実物教育であろう。だが、余りに高すぎる教育である。
この四月一日から百円の月給とりが、源泉課税を七円五十銭差引かれることになった。九十二円五十銭で、家族五、六人の生活をしなければならぬものはザラにある。砂糖一貫目百二十円は安いという時代に。戰爭というものが何を意味するかを納得することは、將來の日本のために大切である。
四月四日(火)
汽車、電車は殺人的な混雜である。電車から出てきたら、赤ン坊が死んでいたという例は少くない。 毎日の今日の社説によると、イタリアの裏切りはユダヤ勢力の働いた結果だ、とある。毎日という大新聞の主筆上原(虎重)という人が、ユダヤ陰謀の一本槍だとのことだ。まさに軽蔑に値する。 東條首相が、ある飛行機工場を突然訪問した。おみやげに卵と酒肴料をもって行った。かれは日本国民全体に卵と酒肴料をもって行けるか。
四月五日(水)
新聞が印度作戰について書きたてている。相変らず「至妙なる作戰」と謳っている。軍部の連中は朝から晩まで讃められていないと、一日が過ごせないのである。が、印度作戰は大きな政策から見ると、悲しむべき結果を生ずることは明瞭である。かりにインパールをとったらどうするというのだ。それ以上は進めず、さればとて退けぬ。戰局の釘づけなのである。そして、犠牲は非常に多いであろう。
四月七日(金)
インパールへ日本軍は進出しつつあり。これは東條大將が参謀総長になってから、最初の大きな作戰だ。これによって印度が動搖し、反英運動が起る可能性をねらったものだ。東條の見通しが正しいかどうかは、やがて明らかになろう。
畠をやっていたら、妙齢の婦人が野菜をわけてくれないかと言った。毎日の新聞は野菜のことばかりだ。
ところが、その増産の奬励にかかわらず、馬鈴薯のタネイモも、ニラも何も配給されぬのである。宣伝だけで何もしない。これを官僚統制という。国民は愚劣だから、まだわからない。なにか行き詰まると、統制の不足にもってくる──始終、同じことを繰返すようだが。
四月十五日(土)
また閣議で配給機構が変った。閣議というところは、魚の小売りや、切符のことばかり相談しているところらしい。とにかく役人は他に用がないのだ。統制の面白さに図面ばかり引いている。小汀利得は常に言う、「役人というやつは、どうしたら国をつぶすことができるかと、そればかり苦労している」と。奇警な言だが眞理あり。
いま悲観論をやっている連中が、眞珠湾攻撃当時はあの一撃で米国が屈すると考えていた連中だ。三宅晴輝のごときもその一人で、僕にひどく食ってかかったものだ。木曜会においては東京日日新聞の西野入(愛一)君が、得々として戰爭が東日(毎日)によって指導、勃発したことを演説したものである。
渡辺銕藏博士が流言による海軍刑法違反の容疑で、十四日起訴された。大阪で話した内容が惡かったとのこと、渡辺君は大胆な言説をしていた人である。
業者は統制関係の法令や命令を読んでいるだけでも大変だ。それを覚えた頃は、また新しいのが出る。
四月二十一日(金)
秋山高君(山王ホテル取締)の話に、出入りの職人が荻窪のほうからくるが、同方面では東條の評判がひどく惡いそうだ。なぜそんなに人気が惡いかときくと、「配給が惡いからです」と。
久しぶりに改造を読む。蘇峰の巻頭論文あり。時局を樂観も悲観もせず正視するという。それから日本の近情を不親切で形式主義だと攻撃している。この人の頭には二つの日本が劃然として存在している。それは神国日本と堕落日本だ。そして日本が堕落したのは西洋個人主義の影響だと考えているのである。いま彼が望むごとく戰爭に入って、いわゆる日本主義が全盛になったのに、なぜ日本がよくならぬのか。
日本には不敬罪がいくつもある。一、皇室、二、東條、三、軍部、四、徳富蘇峰──これらについては、一切の批判は許されない。
午後、国際関係研究会のことで、蝋山君と会見した。事務所を決定。そこへ朝日の記者來る。東條と重臣の会見で、東條が一時間半ばかり演説したよし。重臣の側で動いているのは、阿部信行と岡田啓介である。東條はいまのところ止めそうもないと。
#暗黒日記
四月二十三日(日)
インパール攻撃は、最初は祕密にし、印緬国境突破も新聞社に対して押えたのである。ところが、その国境突破の反響がよく、西アジアのほうからもそうしたニュースがあったというので、今度は東條自身が乘気になり、陣頭に立って宣伝を命令しているとか。知識をもたず、目前の現象で動いている、東條らしい話だ。
四月三十日(日)
日本がこの興亡の大戰爭を始めるのに、幾人がこれを知り、指導し、考え、交渉に当ったろう。恐らく数十人を出まい。祕密主義、官僚主義、指導者原理というものが、いかに危險であるかが、これでもわかる。
來るべき組織においては、言論の自由は絶対に確保しなければならぬ。議員選挙干渉の排除も法律で明定しなければならない。官吏はその責任を、天皇でなく民衆に負うのでなければ、行政の改善は望まれない。
今日も畠をなす。葱の植えかえである。
五月二日(火)
畠をやる。馬鈴薯に追肥をやって中耕す。「土地」というものが、こう誘惑するとは思わなかった。將來、三、四町歩をもって、晴耕雨読できたらばと思う──それまで生命あらば。
近ごろは生命の限度を考える。「早く仕事をしてしまわねば」といった焦慮がある。
五月二十二日(月)
瀬川君に招かれて、上野公園内の明月という料亭に赴く。明月園で人を待つ間、街に立つ。前に大黒天をまつる神社あり。そこを通る学生が、一々きわめて丁寧に頭を下ぐ。しかも決して形式主義にならず、よくこれだけ教育が届いたものだと感心する。だが、これらの若者たちは、いったい何に頭を下げるのだろう。
#暗黒日記
九月六日(月)
東洋経済に行く。戰後問題に関する研究をなすように、石橋君から頼まれる。公然書けない問題なので困る。しかし、日本もあらゆる場合を考えて、自由に研究するような空気が出來なければ、国家は危い。
十月五日(火)
先頃、重臣が東條を招待した。そのとき岡田啓介(海軍大將、二・二六事件当時の首相)が「戰爭はどこもパッとしないようだが」というと、東條は興奮して、「あなたは必勝の信念がないんですか」とプッと立ったという。
また、若槻礼次郎(元首相・元民政党総裁)が、「作柄が心配だ」というと、東條は、「われら閣員は何を食わなくても、一死奉公やるつもりだ」と、これまた興奮したという。彼は議会でも、どこでも、興奮ばかりしている男だ。イエス・マンだけを周囲に集めるのは、そうした性格だからだ。
十月二十六日(火)
正午、軽井沢発、帰京す。中野正剛君が警視庁に捕われたことを聞く。倒閣運動の故とか。
十月二十七日(水)
夕刊で中野正剛の自殺を知る。僕は非常なショックをうけた。彼の自殺の原因は不明である。彼は生一本であった。開戰すれば、米国は直ちに屈服するとも公言した。が、それは謬りであった。その自省の気持ちが、自殺の一因であったのだろうか。それならば立派だが。
僕は彼に二回ご馳走になった。「英国を対手にするつもりなら、とにかくシッカリ研究してからやってくれ」と言うと、彼は「なか/\強敵だ。カイゼルも、ナポレオンもやられたんだからネ」と言った。しかし、彼は英国に行かなかった。英国に行くと、英国流の考え方に堕するからというのである。一つのイデオロギーをまもるために、他の説を聞かないようにするのが、彼の心的弱点である。彼の態度はつねに宗教的であった。彼は「眞」を恐れた。そして、とうとう自殺したのであった。
十一月三日(水)
小汀夫妻、お茶のみにくる。正ちゃんを戰爭に出して、母親は毎日泣いているよし。「日本の母親と、米国の母親とが話し合ったら、戰爭が早く片づきはせぬか」という。その通りである。
ここ、#暗黒日記 で今のところ一番グッときた。
まじめに母親同士が話し合いたいね。
今だったら日中の母親が。
守りたいと、国よりよっぽど本心から思っている人間が。
いちばん腹に来るいい話し合いができないか。
よくこれが残ったなと思います。
実況中継だもんね。暗黒日記。
東洋経済に記事を書いていたようだが。
ラストを待ちわびて読んでいたが
今wikiを調べると
1945年の5月、終戦を待たずに亡くなっていた…。 #暗黒日記
十一月八日(月)
日本は英国を東亞の舞台から引揚げさすべきではなかった。英国が居れば東亞で相共に米国を牽制することができた。英国は恐ろしくない。しかるにこれを追ったために、英米が握手してしまった。排英運動は、素人の外交運動の最惡の見本であった。 汽車の中や、道路の目星しいところに警官が出張り、一々荷物を檢査する。富山県では米二升のために、自殺したものもあったとか。警官の仕事は、泥棒をとらえるよりも、良民をとらえるものになった。事実、その方が樂でもあろう。
十一月九日(火)
企業整備が盛んに進行中である。交易業者六千商社を一割の六百程度に、また出版業者は同じく約一割といった調子である。が、どんなことをやっても、もう手遅れである。
従來の軍人あがりの首相が、比較的にボロを出さなかったのは、相当長期間にわたって中央にいて、ともかく政治を知っていたからだ。東條首相の悲劇は、彼が田舍まわりから直ちに要路に立ったことである。
十一月十四日(日)
支那にいる日本人は、みな買手さえあれば財産を売って、日本に引き揚げたいと考えているそうだ。それも古い支那通がそうなのである。この戰爭の結果、北米、南米、支那、その他あらゆる方面に、営々として築いた努力が、根こそぎに失われるのだ。
十一月二十五日(木)
このような最高知識の会合でも、だれもかれもがウソを言っている。これでは国民に確信をもたせることは困難である。
十二月十一日(土)
賀川豊彦、高良(富子)女史が憲兵隊に呼ばれ、彼らが英国の平和団体の会員であるというので、「英国謀略にかかって入会したが、断然脱会する」という手紙を出せ、しかもそれを憲兵隊から発送せよと言われたという。
#暗黒日記
一月十六日(日)
お晝に等々力君(長野県安曇の人)を招待。第二回の交換船でアメリカから帰ってきた人である。同君の話――
日本がアメリカ飛行士を銃殺したことは、非常な反響を米国でひきおこした。ルーズベルトはこれを利用して、国債を募集した。その成績は遙かに予定額を突破したという。
一月二十二日(土)
読売に風邪もユダヤ人の謀略であるという記事がのっている。それは秋田重季子爵の談だが、それには、「私の担当はユダヤの医学講演で、ユダヤ人医師は次から次へと病気をつくって、世界にバラまいている。こんどのイギリス風邪とか、チャーチル風邪も、ユダヤの製造に相違なく、彼らは現在借家人のくせに、大家の米英も毒殺し、あわせて世界中をやっつけてユダヤの天下を築こうという魂胆だ。これを断固として叩きつぶすのは、日本人の強さあるのみである」という。噴飯ものだが、これが現代日本の知的標準である。
太田三郎氏(外務省課長)から「ピース・アンド・ワー」を送ってもらう。「極祕」とある。なぜ極祕か。国民に対する不信任か。自己の政策に対し自信がないからか。それとも若い官吏たちが面白半分にやっているのか。
これに対する來栖三郎氏の批評を読む。やはり傑出した頭脳である。
三月十日(金)
帝大の辰野隆氏いわく、「東條首相というのは中学生ぐらいの頭脳ですね。あれぐらいのは中学生の中に沢山ありますよ」と。
日曜休日を三月五日から全廃した。学校も日曜を授業し得るよう法令を改正する。よけい時間をかけることが能率をあげることだと考えるのが、時代精神である。
三月十一日(土)
午後、雨宮庸藏君(中央公論編集長)、先頃の講演の礼をもってくる。かつてはこんな收入は珍らしくもなく、顧みてもみなかった。近頃は五十円が有難い。生活の決戰期も目前にきたのである。
三月十二日(日)
アメリカの「日本抹殺」の内容が、新聞に公然とあらわれてきた。これについて情報局井口(貞夫)第三部長も放送し、例の本多熊太郎もそれを言っている。彼らは「日本帝国抹殺」と「日本民族抹殺」を混淆している。
アドミラルティーのロスネグロス島に敵が上陸したと発表。海軍に優秀な青年が爭って入隊した。その優秀な学徒が、いまや全滅の悲運に瀕している。日本は彼らに待つべきものが多かった。戰後の社会は恐らく人間の断層に苦しむであろう。これが今回の戰爭のもたらした最大の損害だ。
三月十四日(火)
直言を当局者が好まぬ例はあまりに多い。ある代議士が東條に忠告した。会合は二人だけであったが、帰りに憲兵隊に呼ばれて、ひどく虐められたという話がある。蝋山君いわく、こんな国に生れたのは不幸だったと。知識人としては、こんな低劣な空気と干渉には堪え得まい。
三月二十三日(木)
新聞社は陸海軍の軋轢のため、どちらのことも書けぬといっているとか。日本はこの問題においても末期的症状を呈している。この間の毎日新聞の発売禁止も、内実は同紙が海軍の提灯をもちすぎたからだという。「竹槍はダメだ」とか、「海軍航空機増産」を強調したのが、陸軍の疳にさわったのである。恐らくそうであろう。
三月二十七日(月)
午後、樺太紀行を草す。僕の原稿を出すところは東洋経済のみである。小汀君も日本産業経済にのせるのを断ってきた。恐らくは例の方面への遠慮からだ。
東條首相などについて、巷間いろいろの噂がある。床屋での話だというのをきくと、東條は敵産の一万円ばかりするピアノを五十円で買ったとか。敵産を安く買ったものの中に、大藏省や内務省の役人が沢山あるとのことだ。まるでメチャクチャに安いよし。將來、問題になるときがあろう。
三月二十九日(水)
梅、満開。
毎日新聞に地方の別莊などを徴用せよとの投書あり。近ごろは個人の所有権をとりあげることを、当然のように考えている。
土橋のところに警官七名がきて、土藏に入って、品物を全部提供せよと命令したよし。商品の私有を許さぬのである。
四月二日(日)
東洋経済に家族会があったが、平川唯一君が電気器具の修繕にきてくれる約束があったので行かなかった。平川君という米国大学の出身者が、日本の電気屋さんが修繕できぬものを直してくれるのだ。冷藏庫、ワッフルのアイロン、その他ことごとく然り。形式主義の日本教育と、考えることを教える教育との相違ここにあり。
八月三十一日(火)
日本には憲法存せず。
九月四日(土)
わが陸軍は兵隊は強いし負けないが、鉄が不足するが故に勝利が握れないという宣伝になってきた。本日の毎日に、「皇軍の精鋭は戰鬪に勝ちつつも、これら醜類の擁する鉄量と飛行機のために圧倒されているのである。慨嘆に堪えないではないか」という社説あり。
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