港区立男女平等参画センターリーブラの、「リーブラ パープルリボン運動2023」パネル展にメッセージを寄せています。
お近くの方がいらしたらご覧くださいませ。
(リーブラさん、「男女共同参画センター」ではなく「男女平等参画センター」なのって、なんか良いですよね)
港区立男女平等参画センターリーブラの、「リーブラ パープルリボン運動2023」パネル展にメッセージを寄せています。
お近くの方がいらしたらご覧くださいませ。
(リーブラさん、「男女共同参画センター」ではなく「男女平等参画センター」なのって、なんか良いですよね)
→ そして、やはり90年代のいわゆるジェンダークィア/越境の時代の議論を見てきた立場からは、このような議論にあたって、多様なシス女性たちの直面してきた問題や彼女たちが作り出してきた抵抗の形式を過小評価しない言説を作っていくこともまた、非常に重要ではないかな、と思っています。
(あの時代の「ジェンダークロッシング」への欲望と熱狂に直面して、「女性性」からの離脱の欲望が他の差異の収奪の形を取り得ることを指摘した論者たちの議論は、私は今でもとても好きだし大事に思っています。そして、あれをいわば「生得的女性の優位性」のようなまったく見当違いの方向に結びつけずに展開して共有していくために、何が必要だった/であるのだろうか、と考えることは多いです)
あ、これ記事が公開されていたんですね。NHKカルチャーでの対談についての周司あきらさんのまとめです。
個人的にはひたすら「解像度」を上げていこうみたいな発想にはそろそろ限界があるよ、と言うところに割とポイントがあったのですが、伝わったでしょうか。
あと、これは原稿を拝見した段階でお伝えしてあるのですが、「男や女であるとはどういうことかっていうのを最前線で更新しているのは、フェミニズムのなかでのトランスの人たちの重要な貢献」と言う高井さんのご発言は、アクティヴィズムとしてはありかもしれないと思いますが、私はフェミニズム理論の研究者なのでこの表現はあまり正確ではないように思います。
「男や女であるとはどう言うことかを最前線で更新してきた/いる」人々の中には、もちろんトランスやノンバイナリーの人も含まれていますが、あちこちでインターセクシュアリティについてお話してきたように、例えば人種的マイノリティの、障がい者の、あるいはブッチやフェムのシス女性たちもまた、ある意味では「最前線」で「女/男であること」を更新してきた、と思うからです。
先日、NYTのThe Dailyポッドキャストでパレスチナ系アメリカ人女性がガザの状況について話をしていた。彼女はずっと米国で仕事をしていて子どもたちも米国にいるが、年配の両親に会う為にガザを訪れていて、そのまま爆撃下のガザに閉じ込められたのだという。
その人の言葉が耳に残っている。
「以前の私は、ガザは仕切りのない牢獄だと言っていた。けれども今は違う。今のガザは仕切りのない墓場だ。ガザの人々は生きているだろう、と思うのか?生きてなどいない、ゾンビだ。歩いたり話をしたりしているからというだけで生きているとは言えない」「彼らは私たちをどうしたいのか?海に追い落としたいのか?それならさっさとそうしろ」
嘆かれるに値するとみなされる生、という、AIDS禍を経て対テロ戦争のなかで20年前にバトラーが考えていたことを、もう一度追いかけて考えている。
今はまだ命ある人々に囲まれた(そしてその人々を大切に思っている)今はまだ命ある人から発せられる、私たちはもはや生きていない、あなた達はすでに私たちを殺していて、それを認めようとしていないだけだ、という糾弾。
ガザからの避難ルートが爆撃されたことをアルジャジーラが確認したと言っている件(13日、死者70人)、額面通り受け取って良い話なのかどうかと思っていたけれども、アムネスティも確認したと言っている(13日、死者70人)わけですよね?
イスラエルの爆撃だと言っている側と、ハマス側の攻撃だと言っている側がいるようだけれども、どちらにしても、子どもや傷病人を含む市民が脱出できずに閉じ込められたまま狙われて殺されていることには変わりはない。
このPodcastは面白かった。
トランスを含めてジェンダーについての気楽にアクセスできる議論で、あ〜それだよ!と思うことは、実はそんなに多くない。というか、もう基本的にこういうメディアではトランスフォビアやクィア・バッシングがどう作用しているか、それにどう対抗するかの議論でもうみんないっぱいな感じが何年か続いている。それはとても重要だしいつも参考になるけど、こういう、明確にフェミニズムやクィアの議論の延長線上にあり、けれども一見したところ文脈によっては「反差別」言説がとりあえずの前提として提示しているのとは必ずしも一致しないと思えるかもしれない議論(言葉だの論理だのレトリックだの)というのが、私はやっぱり好きだし、聞いていて楽しい。
…と思いながら聞いていて、途中で、そっかジェネレーション同じなのね、と気がついた。SOGIを「生得的」であるという説明は簡単だから私も啓発的な場ではつい使ってしまうこともあるけれど、そもそもそれ自体意味分からないって話は昔から結構あったしみんなさんざんしたよね〜、みたいなジェネレーション。
https://www.nytimes.com/2023/10/10/opinion/ezra-klein-podcast-masha-gessen-oct-2023.html
国際カミングアウトデーなのか…
そもそも「カミングアウトの日」の意味が正直わからんとは思っていて、カミングアウトした人をサポートする日です的な発想自体、クィアコミュニティとしてサポートしようねというのはまだわかるとして、異性愛規範にどっしり乗っかっている社会の側が「カミングアウトした人をサポートしましょう!」とか言ってるのを見聞きすると、クローゼットを作り出してるのはあなた達な訳ですけど、クローゼットそれ自体は放っておいてカミングアウトのサポートって何の寝言ですか感が、ものすごくあります。
それはともかく、先日授業でセジウィックを読んでいた時に「カミングアウトっていう言葉はあちこちで聞いたことがあったけど、クローゼットは最近まで聞いたことなかったです」と学部生に口々に教えられて絶望した話は、しましたっけ?
カミングアウトを個人の勇気ある行動みたいな話にせずに、きちんとクローゼットという構造の理解とセットで語ってほしい、とあらためて思います。
ニュースを見るたびに世界の着実な崩壊を目の当たりにしているように感じるのが日常になり始めたのは、いつ頃だったろうか。
以前はそれでも、遅々とした歩みではあれ世界全体としては多少なりとも良くなっているのだろうと思えたり、「進歩」と言う言葉に何らかの肯定的な意味が感じられたりすることもあったように記憶しているのだけれど、あれは世界が今よりマシだったのか、単に私が若くてまだ希望を持てていたのか、どちらなのか、もうよく分からない。
清末愛砂さんのFBより。
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「ハマースの行動を真に批判できるのは、イスラエルによる国際法違反の過酷な封鎖下で、尊厳と生きる希望を奪われてきたガザの人々だけでないのか。国際社会は、ガザの人々が封鎖下で長年強いられきた構造的暴力や直接的暴力に真摯に向き合ってきたか。看過してきた者がもっともらしく批判できるのか。
(中略)
パンパンに膨らんだ風船が破裂したときの威力は大変に大きい。いま、その威力の恐ろしい力を見せつけられている。風船を膨らませたその責任を自問せず、ハマースだけを批判しても、何ら解決にはいたらない。」
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=10163469957272782&id=599067781
一日中ニュースを見ておらず、お夕飯を食べながら今日はじめてBBCを見たら「イスラエルが攻撃されている」とのヘッドラインで、なんかもうそれだけで嫌になる部分はある。不正確ではないかもしれないけど、この状況下でそのヘッドラインは本当に最適なのだろうか、と。
昨日の大学での仕事があまりにも疲労度が高すぎて、本日の大学院説明会の間もずっとなんだかぼうっとしてしまっていたのですが、まあきっとそれほど大きな問題ではないですよね…
BT。
というか、「性のあり方に関する価値観は多様化しているが、性風俗業を公的に認めるのは相当ではないとする考えが失われたわけではない」という文の直前に、「国民の理解を得るのが難しいと判断した理由には合理性がある」という文言が入っているのが、本当になんというか。
とにかく日本政府にとってはなんであれ国民の理解を得るのがとにかく難しいのよね。ただし、政府が多数の国民からの異議申し立てや疑問の声を黙殺して誰のためだかよくわからないままに強引に推し進める諸プロジェクトは除く。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231005/k10014216561000.html
→ 上記、今回の会見は私は見ていないし(タレントを表に出して印象操作をしようとしているのが見え見えの会見がフレームアップされること自体に強く違和感があって、とにかく大規模な制度的性加害とその隠蔽については企業として業界としての責任をきちんと明確にして再発防止に力をいれるべきだし、私自身はそこが確認できる報道があればそれで良い)、だから「嫌がられる質問をしようとした」とされる記者たちの言動の良し悪しを言いたいわけではないです。
実際にそれが必要な局面というのはいくらでもあると思うし、そこで頑張ってくれる報道の人がいるのは本当にありがたいし重要。
ただそれとは別に、私たちの社会は「行儀良くやってても拉致があかねえんだよ、とにかくこっちの聞いてることに答えろや」みたいな下手をすれば恫喝的になる議論を(とりわけそれを力のある男性が行う場合に)持て囃しかねない傾向があるなあ、とも思っている。
先日の出来会見を機に、指名されるのを大人しく待って相手の嫌がらない質問だけして相手が持って帰って欲しい答えだけを持って帰るのではなく、相手が嫌がってでも聞くべきことを聞き、隠していることを明るみに出すのがジャーナリストのはず、という話が何度も回ってきて、確かに芸能に限らずというかそもそも政治家や政府関係者の会見ですら公式発表をそのまま流しているだけの「報道」が多い日本だからこそ、その点を強調するのは一理あると思う。
思うんだけど、反面、「相手が聞かれたくないことを聞き、嫌がっている点を持ち出す」姿勢こそジャーナリズムだぜ格好いいみたいなのって、80年代にあったよね一度?
久米宏のニュースステーションだの田原総一郎の朝生だのが出てきて、私は政治的には久米宏の方にどちらかというと賛成できることが多かったけれども、いずれにしても「人の話を遮ってでも相手の嫌がりそうな論点を出す」スタイルで人気を博していたように思う。
あれ、良かったですか?あのやり方で議論は深まり、重要な事実が次々明るみに出たのかな。
私はあれはなんかあまり良いレガシーを残さなかったように感じているのだけれど。
→
ある人が何らかの点でマジョリティ属性であること自体を批判したり糾弾したりするのはフェミニズムの政治が目指すものでもクィアの政治が目指すものでもないと私は思うのだけれども、とりわけSNSなどで小さく切り取られた鋭利なメッセージだけが一人歩きしがちな状況が続いてきた中で、特に若くてまだ感受性も鋭い人たちを中心に、そういう風な「マジョリティ属性それ自体に罪悪感を覚える」形でメッセージが伝わってしまっている側面は確実にある気がしている。
私はずっとTwitterを使ってきたので意図的ではなかったにせよ結果としてそのようなメッセージ伝達の一端を担った責任はあると思っているし、さらに言えばそれに意識的になったのもこの数年だし、気がついても介入の仕方がわからなかったし、というのもある。
ただ、「マイノリティ認定をしたらその途端にマイノリティ側が道徳的・倫理的に絶対優位に立つ」と思い込んでいるかのような発言を、差別側、被差別側、権利擁護側のいずれにおいても目にすることは多くなっているし、なんかちょっと一度そのあたりを整理して共有していく方法はないんだろうか、とは思う。
ジェンダーやセクシュアリティについて教えていると学生から人生相談を受けるというのは教員あるあるらしいけれど、学生もきちんと相手を見ているので、私は指導性や一緒に仕事している学生以外からそういう相談をされた経験はほとんどない。
で、先日珍しく相談をされて何かと思ったら、「ジェンダーを勉強していて、興味もあるけれど、自分がマジョリティだから責任があるという罪悪感が動機の一つとして大きい、勉強しながらとても辛い」みたいな話で。
「マジョリティには責任がある」というのはそれ自体は念頭におくべきだけれども、それは罪悪感を抱くべきものではないと私は思っている。これは構造の話であって個人的な罪の話ではないから。
それに、罪悪感が出発点になると、押しつぶされるか、どこかでマイノリティへの恨みが溜まってしまうか、自分の罪悪感の解消が無意識的に先立ってしまって厄介なことになるか、のどれかに陥りやすい気もする。
性の政治との関わり方としては、やっぱり「自分」の問題関心から出発するので良いと思う。
このあたり、以前から少し気になっていたのだけれど、真面目な若い人ほど袋小路に入り込みがちで、難しい。
納得のいかないキャンセルに抗議なさるのはもちろん当然だと思うのだけれど、それならそれと同時に、お膝元の学会誌でトランス関係の査読論文が査読コメントもなく突き返されたり、差別的発言に抗議してスタンディングする若手マイノリティ研究者をわざわざ写真に撮ってみせてそれに対する写真削除要請を学会幹部が黙殺したり、そういう、キャンセルされるポジションに辿り着く前の段階での声の封殺に対しても、もう少し目を向けて頂ければ、とも思う。
批判を経て思想が鍛錬されるのはその通りだけれども、たとえばトランスというあり方を巡って、あるいはたアイデンティティを巡って、あるいは誰が女性なのかという問題を巡って、フェミニズムが鍛錬して練り上げてきた思考を踏まえて話をするのでなければ、その主張には意味がないでしょう。単にガラガラポンで蓄積を無かったことにするのは、批判を通じた思想の鍛錬とは違うのではないかと思います。
というか、このような問題についてフェミニズムの思考がどのような批判を受けて何をどう考え直し鍛錬されて来たのか、ここで一言で簡潔に同意表明されている方は、ご存じなのだろうか。それを踏まえずに単に「そうだねこれらの問題についてフェミニズムはもっと批判を踏まえて思想的に鍛錬されるべきだね自分もそう思うよ」と仰っているなら、フェミニズムの思考を馬鹿になさるにも程がある、と思う。
中学校の校長が生徒に性的暴行を加えてしかもそれを撮影・保存していたというニュースを読んで本当にもう永久に閉じ込められてしまえば良いのにみたいな気分になっている(フェミニズムが性暴力への対応を警察権力に委譲する方へと傾くのはかなりリスキーだというのをいくら読んで理解していても、瞬間的に「もう一生出てくんなよ!」と思ってそこで止まってしまうのが、難しいところだよなと思うなど)。
(ええと、「第二波フェミニズムまではトランス排除が当たり前だった」という記述をBTで見かけたのですが、ちょっと正確ではないです。
第二波というかラディカルフェミニズムの時代、ラディカルフェミニストの中にもトランスの人たちはいました(現在の表現だとトランスフェミニンに当たる人もトランスマスキュリンに当たる人もいます)。それも、トランスの人が一人いた二人いた、とかじゃなくて、ある意味では「トランスフェミニンな人たちを排除するかどうか」が議論になるレベルで(そしてそれが一方的な議論にはならず、トランス女性を擁護する人々が多数出てくるレベルで)、あるいは「トランスマスキュリンな人は女性性への裏切り者なのか」が真剣に問題になるレベルで(そしてそのような問題提起に対して何を言っているんだと憤るレズビアンたちが多数いたレベルで)、トランスの人たちはフェミニン側もマスキュリン側も、フェミニストとして活動していました。
ラディカルフェミニズムの主張が「女性」を非常に限定的に定義しがちで、そこに根差した強烈なトランス排除の主張が生まれたのも事実なのですが、それが全部ではない、というか。)
Feminist & queer theory& politics/ En&Jpn. She/her.Twitter: @akishmzThreads: @akishmz1@threads.net『フェミニズムってなんですか?』(文春新書)https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166613618『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』(有斐閣)http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641174771『多様性との対話:ダイバーシティ推進が見えなくするもの』(青弓社ライブラリー、岩渕功一編、第6章「「同じ女性」ではないことの希望――フェミニズムとインターセクショナリティ」)https://www.seikyusha.co.jp/bd/isbn/9784787234834/
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