とはいえ、であるが、我が近辺の例をとれば、杉田水脈衆議員である。このひとが国会議員失格なのはいうまでもないが、欧州であれば犯罪者である発言を次々と繰り返している。この人の発言はひとまず認めて、社会はその犯罪性を徹底的に糾弾し言論のみであの暴言の数々の再生産を淘汰できるだろうか?あるいはストレートにその発言を刑法で取り締まるべきだろうか? そう考えたときに、私は暗澹とする。日本の課題はそれ以前なのだ。いままで、歴史修正主義や少数派差別主義への対抗言説はひたすら退却をくりかえしてはいないか。あるいは、たとえば、刑法で杉田水脈的な発言を裁くことができるようにする、その立法過程があるとしても、もはやその過程は民主主義的とはないだろうという根本的な問題がある。別の言い方をすれば、そのような法を制定したとしても、今の日本の人間の多くが「我々の合意のもとで決めた罰」とはおもわず、新しく設置されたお触れとしてしか眺めないのではなかろうか。
死刑執行の報に接し「私が殺した」とはほぼだれも思わない、その裏返しの状況がそこにあるのである。