「自由な言論」を旗印に、嘘八百で世の中を混乱させることが果たしてどこまで許されるのか、という問いがそこに生じるわけだが、大半の人間はウソに困るであろう。マスク社長もウソを推奨しているわけではない。ポイントは、事前にウソをスクリーニングするか、事後的にウソを社会が指摘しウソ情報を淘汰させるか、という違いである。それぞれの課題は前者が「特定の集団によるスクリーニングに信頼性はあるのか」ということであり、後者の場合は「ネットの人々が力を合わせたらウソを駆逐できるのか」ということになる。前者のやり方が欧州の伝統的感覚なのだなあ、というのはこの10年ぐらいつくづく感じていることである。いや、そうであろう、というか選良主義がイギリス、フランス、ドイツなどで一般的であるのは所作の様相として知っていたが、実感としてそれを感じ始めたというか仕事上科学の現場でそのような感じ始めたのはこの10年ほどである。