@tadd もうひとつ、このあたりかなあとも。
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偶像崇拝とは、単に像を拝むということではなく、痛苦を避けつつ信じようとする自己執着のことです。ですから、痛苦に身をひたしている信仰は、たとい木、石の像を拝もうとも、偶像崇拝というべきではありません。
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http://ekyoukai.org/FujikiShozo/HaiironoDansou.htm#%E5%81%B6%E5%83%8F%E5%B4%87%E6%8B%9D
「痛苦を避けつつ」というのがキーワードで、占いの本質的な「罪」が何かといえば、目的が「痛苦を避ける」ことなのではないかと思うのです。人間として成長するうえで避けてはならない痛苦から逃れる、逃れた気になるところに、占い禁止の本質があるのではないかということです。
そして「痛苦を避ける」とき、自己正当化が必ず伴います。先の通り「自己正当化は、信仰にとって致命傷」で、「主に揺さぶられる不安定を生き場所として、そこで迷うこと」を拒否する姿勢です( http://ekyoukai.org/FujikiShozo/Keizuno%2011%20IchimeiKetsuin.htm )。
「占い」の本質には、「自分を変えずに周囲を変えようとする姿勢」があるのではないでしょうか。それは神から出ていません。