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tenjuu99 (tenjuu99@pleroma.tenjuu.net)'s status on Monday, 12-Aug-2024 16:19:37 JST tenjuu99 第三章の「ブラジル独立後のコロニアル言説」、ある意味で日本にそっくりだ - るまたん and pica.pica repeated this.
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tenjuu99 (tenjuu99@pleroma.tenjuu.net)'s status on Monday, 12-Aug-2024 16:19:37 JST tenjuu99 ラテンアメリカ諸国の独立の担い手は、植民地宗主国の文化的継承者を自認する植民地人たちである。それゆえに、例えば20世紀中庸のアフリカ諸国の独立の場合のように、独立後のナショナリズムの言説のなかで「植民地化以前の文化伝統の回復」というレトリックを用いることが原理的に不可能であった。それにもかかわらず、「インディオ性(Indianness)」を流用し、土着の先住民の政党な後継者として自らを規定する例は枚挙にいとまがない(Urban and Sherzer, eds. 1991)。ブラジルもその例にもれない。そのナショナリズムの言説は、ヨーロッパの植民地主義から独立を達成した主体としてのブラジル民族=国民という「われわれ」を事後的に構築し、その「われわれ」に土着の正当性を付与するために、先住民インディオという表象を流用し、同時にインディオが自らを表象する道を封じる。(略)インディオとは、他の民族と区別して「われわれブラジル人が何であるか」を定義するために、「われわれ」が利用できる専用の資源であり、「われわれ」が都合よいしかたで自由に定義する特権をもつ他者なのである。
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tenjuu99 (tenjuu99@pleroma.tenjuu.net)'s status on Monday, 12-Aug-2024 16:20:22 JST tenjuu99 ブラジルの人類学者ラモス(Ramos 1990)は、欧米では人類学が帝国建設(Empire-building)に貢献してきたのに対して、ブラジルの人類学は国民建設(nation-building)をめざしてきたという、同僚の人類学者の言葉を紹介している。この違いは、前者が、自己と他者の隔絶した文化的異質性を前提として、その間に架橋する(支配であれ指導であれ)社会関係を樹立しようとする企てであるのに対して、後者は、すでに社会関係が存在してしまっている他者をも包含する「われわれ」という文化的な同質性を構築しようとする企てだと言い換えることもできるだろう。
これ日本の場合は両方あるな
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tenjuu99 (tenjuu99@pleroma.tenjuu.net)'s status on Monday, 12-Aug-2024 16:20:22 JST tenjuu99 というか、日本の場合は、「すでに社会関係が存在してしまっている他者をも包含する「われわれ」という文化的な同質性を構築しようとする企て」が柳田以来の民俗学であり、「自己と他者の隔絶した文化的異質性を前提として、その間に架橋する(支配であれ指導であれ)社会関係を樹立しようとする企て」が人類学だ。 -
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tenjuu99 (tenjuu99@pleroma.tenjuu.net)'s status on Monday, 12-Aug-2024 16:20:22 JST tenjuu99 梅原猛とか、アイヌ語に「原日本語」を読み取ろうとする試みがいくつかあったとおもう。あれは学術的にはどうなのかはわからないけど、「日本人とはなにか」という問いに答えようとするもので、「「われわれ」という文化的な同質性を構築しようとする企て」そのものだとおもう。柳田國男や柳宗悦が琉球に関心を寄せていたのはどう理解するべきだろうか。 るまたん repeated this. -
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tenjuu99 (tenjuu99@pleroma.tenjuu.net)'s status on Monday, 12-Aug-2024 16:20:22 JST tenjuu99 ネオリベラリズムの伸長と踵を接するように、「ラテンアメリカがポストモダニティの先鞭をつけたのは、概念がヨーロッパや北米のコンテクストで現れるより前である」という奇妙な議論がなされるようになってきた。それまで近代化にとっての障害あるいは跛行的な近代化の現れとみなされてきたラテンアメリカ社会の異種混淆性が、「先取りのポストモダニズム」として喧伝されるという事態である。
どこの日本のことだ
るまたん repeated this. -
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tenjuu99 (tenjuu99@pleroma.tenjuu.net)'s status on Monday, 12-Aug-2024 16:20:37 JST tenjuu99 >異種混淆性の議論そのものは、けっして近年になって、グローバリゼーションの下で氾濫する商品化されたシンクレティズムや、ポストモダニズムに影響された文化理論とともに現れてきたものではない。「メスティサヘ」や「混血の文化」というメタファーにくり返し訴えてきたラテンアメリカのナショナリズムにとっては、使い古されたと言うことさえできる議論なのである。(略)ショーハットとスタム(Shohat and Stam 1994)が正しく指摘しているように、「異種混淆性は、権力関係を含んだ非対称的なもの」であり、「異種混淆性それ自体を賛美することは、もしそれが歴史的なヘゲモニーの問題と節合されないのであれば、植民地暴力の既成事実を聖化してしまう危険がある」。ブラジル(そしてラテンアメリカ)では、まさにそのようなかたちで、異種混淆性の美学が、あらゆるものを非政治化する作用をはたしてきたのである。 るまたん repeated this. -
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tenjuu99 (tenjuu99@pleroma.tenjuu.net)'s status on Monday, 12-Aug-2024 16:20:56 JST tenjuu99 しかし、文化的に植民地化された状態とは、まさにそのような言説の内部でしか思考・表現できないことを言うのではないだろうか。つまり、自らが生きている社会的現実に正しく向き合うことができず、世界の中心と目される先進国というモデルとの同一性と差異という問題だけに関心を集中しつづけ、「自分たちの文化がモデルにどれだけ近づきえているか」と「自分たちの文化がモデルからどれだけ離れた独自のものたりえているか」という両極のあいだを振り子のように往復することしかできないことが、文化的に植民地化された状態なのである。別の言い方をすれば、文化的に植民地化された状態においては、めざすべきモデルの受容を強制され、同時にそのモデルに到達することを妨げられ、モデルとの差異を自分たちの側の遅滞・劣等性として理解するようになっているのである。
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tenjuu99 (tenjuu99@pleroma.tenjuu.net)'s status on Wednesday, 14-Aug-2024 05:18:08 JST tenjuu99 プリミティヴィズムとジャポニスムの関係、ちゃんと問われていないはずなんだよな。 -
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tenjuu99 (tenjuu99@pleroma.tenjuu.net)'s status on Wednesday, 14-Aug-2024 05:18:08 JST tenjuu99 モダニズム芸術が、都合のよいアカデミズム批判をするために「非西洋」を流用したのとまったく同じスタイルで、ポストモダニズムも、「非西洋芸術」を都合のよい近代批判のために流用する。つまり、近代芸術が自明視する前提そのものに対するラディカルな挑戦となりうる差異を毒抜きして、自分に都合よく消化=理解できる差異に加工してつまみ食いしているのである。そもそも一九八四年にモダニスト芸術家による流用を正当化する展覧会が開催されるということ自体が、たとえポストモダニスト的批判を呼び起こしたとしても、二十世紀初頭と世紀末とのあいだに断絶よりは連続性のほうが多いことを窺わせるに充分である。
るまたん repeated this. -
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tenjuu99 (tenjuu99@pleroma.tenjuu.net)'s status on Wednesday, 14-Aug-2024 05:18:08 JST tenjuu99 仮に非西洋の器物が西洋によって芸術品の地位に格上げされたとしても、それは、その器物を生産した人物を芸術家として認知し、その制作プロセスを芸術作品の制作として認知することを必ずしも意味しなかったのである。プライス(Price 1989)によれば、「未開芸術」の収集家にとっては、作者が匿名であること、つまり、作者が芸術家と自認(自任)していないことが、その作品の価値を増す。また彼女は、収集家が自らの作業を「便器に対するデュシャンの作業」に類したものとみなしているとも指摘する。要するに、非西洋の制作者の意図などどうでもよく、芸術として発見する西洋の創造的な眼だけが重要だとされてきたのである。
まるっきり柳宗悦だった。
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tenjuu99 (tenjuu99@pleroma.tenjuu.net)'s status on Wednesday, 14-Aug-2024 05:18:09 JST tenjuu99 本章は、大きくわけて三つの部分から構成されている。第一に、西洋近代で成立した「芸術」をめぐる言説が、どのようにして自らの普遍性をよそおい、非西洋世界の生み出したモノをどのような差異として「流用(appropriation)」してきたのかについて検討し、さらに、ポストモダンとよばれる歴史的状況のなかで、その一方向的なプロセスがどのように形を変えつつも連続しているかについて考察する。第二に、グアテマラのインディヘナの画家によって絵画が生産され、流通し、消費されるプロセスについて、上記の二つの村の画家たちの仕事に即し、私自身のフィールドワークにもとづいて概観する。そこでの焦点は、画家たちがどのような条件の下でどのような絵画を生産し、それがどのような「意味生産の実践(signifying practice)」なのかという点である。第三に、非西洋の「コンタクト・ゾーン(contact zone)」において西洋の技法を用いて制作される絵画が、どのような意味で「交渉」の場となっているのか、そこで何が「交渉」されているのかについて、オーストラリア、バリ、ザイール(現コンゴ民主共和国)などの事例をも視野に入れて論じ、それぞれの事例に特有の論点とともに、共通の問題点が浮彫にされる。
「第七章 芸術/文化をめぐる交渉」
本書を読もうとおもったのはここを読みたかったからなんだけど、理由は上記の問題設定が、浮世絵もあきらかにこの視点から読解できるはずなのと、この appropriation の問題がジェイムズ・クリフォードの芸術/文化の移行モデルをもとにしているから。「コンタクト・ゾーン」にも関心があった。
MOMAプリミティヴィスム展を巡るクリフォードvsルービンの論争も記述されていて、あらためて興味深い。