モダニズム芸術が、都合のよいアカデミズム批判をするために「非西洋」を流用したのとまったく同じスタイルで、ポストモダニズムも、「非西洋芸術」を都合のよい近代批判のために流用する。つまり、近代芸術が自明視する前提そのものに対するラディカルな挑戦となりうる差異を毒抜きして、自分に都合よく消化=理解できる差異に加工してつまみ食いしているのである。そもそも一九八四年にモダニスト芸術家による流用を正当化する展覧会が開催されるということ自体が、たとえポストモダニスト的批判を呼び起こしたとしても、二十世紀初頭と世紀末とのあいだに断絶よりは連続性のほうが多いことを窺わせるに充分である。