この悩みながら書いた書評がこちら(文藝)です。
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桜庭一樹 (sakurabakazuki@mstdn.jp)'s status on Thursday, 19-Jan-2023 00:24:56 JST 桜庭一樹 -
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桜庭一樹 (sakurabakazuki@mstdn.jp)'s status on Thursday, 19-Jan-2023 00:24:57 JST 桜庭一樹 昨年から、今年、というか今月になってからも、複数の著者の方から「自分も同じ人に誤読をされて耐えた」「自分も被害に遭ったことがある」「戦ってくれてありがとう」「一緒に声を上げられなくてごめんなさい」といった連絡を受け取り続けています。えっ、こんなキャリアのある方がと驚くような方々もいます。朝日も本人も本当にもういい加減にしてほしい。初心に帰ってちゃんと書こう。若手の批評家の方々の原稿を見習ってほしい。
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桜庭一樹 (sakurabakazuki@mstdn.jp)'s status on Thursday, 19-Jan-2023 00:24:57 JST 桜庭一樹 先月、新人の方の作品の書評を書いたのだけれど、とても怖かった。
ご本人の預かり知らぬところで、編集部が依頼し、誰か(この場合はわたし)が書くのだが。書き手が自分の柔らかくて無防備な内面を開示して、大切なことを伝えてくれている作品に、〝評する〟立場から、無断で土足で侵入して踏み荒らすような怖さがあった。
これまではそんなふうに思ったことがなく、書評や解説、読書日記を自由に書いてきた。もちろん、作品と作者への敬意があるかを自己確認しつつではあったけれど。
評する側の一方的な〝権力〟の勾配を初めて自覚したのかもしれない。
小説でしか触れられないだろう、誰かの本質的な美しい部分に踏みこんでから、悪意を持って相手の心を壊すようなアプローチも可能なのだろうと思った。多くの評者がそんな酷いことをしないのは、ただ個人の良識のみにかかっているように感じて怖かったのかな?
考えた末、冷静な分析で書き終えたところを幾度も直し、なんというか、著者の方とフラットに向き合い、素直に自己開示しつつ寄り添うような書き方に変えて入稿した。ともかく先月のわたしの判断ではそうなった。
難しい。
引き続き考え続けていきたい。 -
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桜庭一樹 (sakurabakazuki@mstdn.jp)'s status on Thursday, 19-Jan-2023 00:24:57 JST 桜庭一樹 昨年末、そんなことをずっと考えているとき、webちくまの西村紗知さんの新連載「愛のある批評」の惹句を読んで心を深く動かされた。自分も誰かの実存を評したり熱を持って消費したりする側の人間でもあるから。
主にこのような惹句だった。
「人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある」
「共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する」
https://www.webchikuma.jp/articles/-/2922 -
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桜庭一樹 (sakurabakazuki@mstdn.jp)'s status on Thursday, 19-Jan-2023 00:24:58 JST 桜庭一樹 もうこの書き方が癖になっていて、加害性を自覚していないし、いまさら他の方法はできないのだろうか?
最後は自己憐憫の自分語りで終わり、著者の大切な作品を尊重せずどっかにぶん投げちゃってる。とにかく作品をきちんと論じてほしい。テキストをあまり無視しないという原点に帰ってほしい。自分の都合で意味を書き換えるのは、会話でも批評でも暴力。In conversation permalink -
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桜庭一樹 (sakurabakazuki@mstdn.jp)'s status on Thursday, 19-Jan-2023 00:24:58 JST 桜庭一樹 「自分のしたい話をするために人の作品を持ってきて、切り貼りして、別の話にしないでね」というだけの単純なことが、なぜ理解できず、今年も繰り返しているのだろうか。
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桜庭一樹 (sakurabakazuki@mstdn.jp)'s status on Thursday, 19-Jan-2023 00:24:59 JST 桜庭一樹 朝日新聞の文芸時評を読んで、また件の評論家が「意味の占有」をやらかしているなと思いました。
絶対的に弱い立場の若い女性が、権力のある男性からセクハラを受けたことを「飲み込まされた」というエピソードは、評論家自身の「加害者が自分の加害について都合が悪いので沈黙した」のとは逆の話ではないかと。
作者の渾身の作品を、勝手に別の意味に書き換え、自分のしたい話だけ一方的にするのは「批評」ではない。わたしは書き手として、このように作品を冒涜するのもハラスメントだと思う。In conversation permalink
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