テネシー・ウィリアムス『欲望という名の電車』の映画を、19歳のとき教育テレビで観た。ヒロインのブランチの「私は見ず知らずの方の好意に縋って生きてきたんです」という台詞で泣いたのを覚えている。
それから戯曲も読み、長らく傑作だと思ってきた。
でも今年、文学座の公演を観て、「この作品はもうやってはいけないだろう」と思った。一人の女性を露悪的に描き、その人が性的暴行を受けるところをカタルシスを置いている。許されないことだったと。
昨今、古典の再演で、作品の瑕疵を演出で批評する、的なのをいくつか観た。たとえば『夏の夜の夢』を、ユーモラスっぽく消費されていた四番手の女性(じゃない方の女の子、的な)を主演にすることで丸ごとひっくり返すとか。『シラノ・ド・ベルジュラック』で、単純なマドンナ役だったロクサーヌが、自分の考えや恋愛観を主張するオリジナルシーンを入れるとか。
これらの舞台はとても好きだったのだけど、でも『欲望という名の電車』は根本が間違っているからどうしようもないではないか……。
長年愛してきた様々な古典とも訣別の時がきていると思う。
そんな2022年だ。
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桜庭一樹 (sakurabakazuki@mstdn.jp)'s status on Thursday, 19-Jan-2023 00:02:08 JST 桜庭一樹 -
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桜庭一樹 (sakurabakazuki@mstdn.jp)'s status on Thursday, 19-Jan-2023 00:02:07 JST 桜庭一樹 帰り道、(いや、待てよ…)と首を捻り始めた。
問題のシーンの台詞だけなら、確かに多様な解釈ができるかもしれない。でも前後のさまざまなシーンとの整合性も取れているか?
それならなぜブランチはその後に破滅した?
そもそもスタンリーとブランチの力の均衡は全く対等じゃない。スタンリーは家長で労働者で家主の男性。ブランチは家を手放し失業もした居候の女性。もしブランチがスタンリーに対して感じた欲望があったとしたら、それは家父長制などを内面化し、自分の身を守るためのパフォーマンスというか、欲望と誤認する不安のようなものではないかと。もしそうなら、問題のシーンの後の破滅が理解できるし、〝欲望という名の電車に乗って…〟というタイトルの奥の怖さもよりわかるように感じた。
単に、立場の弱い側の女性も関係を望んでいた、だから性暴力じゃなかった、搾取もしていない、とすると、こぼれ落ちるものがあまりに重大すぎるのではないか。それに演劇は、そうやってまたもやなかったことにされてしまうもののほう、小さな声のほうを可視化させるべきでは。権力のある側に都合の良い言い分ではなくて。
と考え、悩みながら帰ってきた。 -
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桜庭一樹 (sakurabakazuki@mstdn.jp)'s status on Thursday, 19-Jan-2023 00:02:07 JST 桜庭一樹 『欲望という名の電車』の本が届いたので読み返していた。
最後の問題のシーンは、以前読んだ時の記憶に間違いなかった。これをどう解釈したらレイプではないということになるのか理解できないと思った。自分があれこれ考えていたエントラップメント型ということでもなく、ブランチは記憶通り、怯えつつスタンリーにはっきり「NO」と意思表示していた。
作者の側に立って考えると、「書いてないことを書いてあったことにされる」のも辛いし、「書いたことを書いてなかったことにされる」ことも狂おしいと思う。しかもテネシー・ウィリアムズは亡くなっていて「NO」と意思表示できない。
これが小説の感想や評論であれば、単に誤読だ。でも戯曲の演出には異なるルールと倫理観と自由があるのだろうか? 業界が違い、素人なのでそこがわからない。わからないのだが、説明し難い形の動揺と悲しい気持ちがある。 -
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桜庭一樹 (sakurabakazuki@mstdn.jp)'s status on Thursday, 19-Jan-2023 00:02:08 JST 桜庭一樹 これです。
『真夏の夜の夢』
https://www.geigeki.jp/ch/ch1/t245-2.html
『シラノ・ド・ベルジュラック』
https://www.ntlive.jp/cyrano -
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桜庭一樹 (sakurabakazuki@mstdn.jp)'s status on Thursday, 19-Jan-2023 00:02:08 JST 桜庭一樹 イギリスの舞台演出家フィリップ・ブリーン氏のトークイベントを聞いた。
例のテネシー・ウィリアムス作『欲望という名の電車』の話になった。氏は日本で大竹しのぶ主演で舞台化したことがあるという。「スタンリーが妻の姉ブランチを最後にレイプしたというのは間違いだ。原作にはそうは書かれていない。長年、舞台化されるときにそのように演出され続けたせいで、広く思い込まれている」「誤解の原因は〝男は暴力的だ〟〝女はヒステリーだ〟といった社会の偏見だ」「自分は問題のシーンでのブランチの(拒絶の)台詞をこのように解釈している。『あなたが私としたいと思っていることをしないで。私もしたいと思っているけれど。なぜならあなたは妹の夫だから』と」(わたしの記憶による要約です)
この下りを聞いて「え、書いてない?」と驚き、読み返さねばとその場でAmazonに注文した。
もし本当に、書かれていない犯罪が、演出家の解釈によって、さらに舞台を見た観客の解釈によって、書かれていたように広く信じられているなら恐ろしい。その理由が受け手の差別的な偏見であるなら、もっと恐い。
そう思って自分を疑って動揺したのだが(続)In conversation permalink
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