授業についていけなくなってしまってどうすればいいかわからない状況にある人に、ただただ勉強しろと迫ったり、個別具体的にいきなり解法としての公式を教えたところで、そもそもの大前提の時点で「わからない」のだから、「なんでできないんだ」「ちゃんとやれ」「勉強しないのは正しくない」などと言われたらそれは暴力にしか感じられない。まずすべきことは「なにがどうわからないのか」を「教師側が知る」ことで、それができないうちは生徒は勉強をできるようになるどころか、勉強することすらできないまま。「わからない」人の気持ちや状況を理解しようともしない教師の話、聴いてくれるわけがないのだから。
だからそうやって「わからない」を汲み取ろうとする「教師」の役割を担う存在は必要で、存在まるごと全否定すべきではない。もちろん危うい面に対する批判は必要。だけど批判されることは折り込み済みで「あいだに入る」役割を果たそうとしているのかもしれないのだから、その覚悟の可能性も考えずに全否定はすべきじゃない。差別被害の当事者に負担の大きい教師役を担わせないためにも、あいだに入れる余裕のある者が入らないといけないとも言える。