ジェンダーアイデンティティについて「定義」を求めるひとが必要十分条件式のものしか求めない傾向があるように思うとどこかで書いたのだけど、私の認識ではこの概念は半ば直示的に定義されているように思う。
もちろんリンゴのように目の前において「これ」と指差すことはできないけど、「こんな経験してきたよね、こんなことがあったよね、そのときの『これ』これ、あるでしょう?」みたいに。
ジェンダーアイデンティティについて「定義」を求めるひとが必要十分条件式のものしか求めない傾向があるように思うとどこかで書いたのだけど、私の認識ではこの概念は半ば直示的に定義されているように思う。
もちろんリンゴのように目の前において「これ」と指差すことはできないけど、「こんな経験してきたよね、こんなことがあったよね、そのときの『これ』これ、あるでしょう?」みたいに。
哲学者が首を突っ込んでマイノリティの生に関わる概念について訳のわからないことを言って批判されるとき、問題となっているのは「当事者でないものが議論をするな」ではなく、「分析対象となっている概念の前理論的な受け入れられた用法を身につけてもおらず、調査する気もない者が、それゆえに本来なら原理的に不可能なはずの概念的探究をおこなっていると称して自分の勝手な想像を語るのをやめろ」ですよね。
きちんとその言葉の用法を身につけているひとが論じたなら、例えばシスジェンダーだと明言しているキャサリン・ジェンキンスさんによるジェンダーアイデンティティ諸論文は、「議論な不十分」などの批判はありつつ「そもそもこんな論文に価値はない」みたいな方向の避難は特にされず、このテーマの蓄積のひとつとして受け入れられているように見えます。
概念を分析するに際しては、プラトンの探究のパラドクスみたいな話で、ある程度は探究対象について前理論的な認識を前提としたうえでそれを明示化・理論化することが必要で(そうでないと何の話をしているのかわからなくなる)、だからジェンダーアイデンティティについての概念分析をするにはその半直示的定義を通じてその概念の用法を(言語化はできずとも)すでに身につけたうえで、「ではこれを言語化すると?」と考えるか、それができないならそうした用法を身につけているひとたちの言動をもとにデータを集めてそこに見られる特徴を一般化する方向で話を進めるかくらいしかやり方がなく思います。この概念に限らず、概念分析全般がそうですが。
実際に受け入れられている用法を身につけもせず調査もせず概念的な探究をされても、「自分にはこう見える」という話を出発点に延々と自分の思い込みを音節化していくだけになりますし。だからこそ偏った見方をそもそもしているひとからは、哲学のフレーバーをまぶした偏見が出て終わるわけで。
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