『水星の魔女』の最終回は、『水星の魔女』がどのような物語だったのかを逆に示していた。『水星の魔女』の特にS1では様々なテーマが提示されるかに見えたけど、それらのうちどれが『水星の魔女』のテーマだったのかを、最終回は語っている。
社会を構成する資本主義の常識の外側から来たスレッタ・マーキュリーという女性が、資本主義に禁止された技術を使って魔法を起こし(歴代ガンダム的であると同時に魔法モノ的である映像)、資本主義の枠組みの中でオルタナティブな未来を志向する女性たちに奇跡を見せる。それによって、死者と生者が語り合い、殺されていった弱者の怒りを若い世代が責めるのではなく、その声を聞いて無力故に可能性のある和解を築き、同時にその新しい社会の可能性が家族という旧来の枠組みをそのままにした新しい家族が作られることで示される。
『水星の魔女』とはそのような物語であった、初めからそのような物語を目指していたのだ、と最終回は語る。あるいはそれだけはせめて回収してみせた。実際、『水星の魔女』がそのような物語であることは否定できないし、その点ではうまくやってみせたのかもしれない。
一方でそれは様々な属性への差別や関係への差別を巧みに利用し、同時に曖昧にすることで成立した物語でもあった。
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近藤銀河 (spiralginga@fedibird.com)'s status on Monday, 03-Jul-2023 20:45:20 JST 近藤銀河 - 烏丸百九@バーチャル評論家 repeated this.
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近藤銀河 (spiralginga@fedibird.com)'s status on Monday, 03-Jul-2023 20:53:08 JST 近藤銀河 同時にそれは、若さゆえの無力さと真摯さいう一点で全てを並列にする力技によったモノでもあり(その無力さを助けるのが魔法なのはYAの王道だけど)、大人への赦し(それは奇跡を通して行われる)と裏腹にある大人世代への徹底的な絶望と罪悪感によって成り立っている物語でもあり、その徹底した絶望は社会や大人の変化を期待しないことによって、全てを免責するものとして立ち現れる。
そこではもはや先から受け継がざるを得ないもの=呪いは諦めと共に背負わされ、諦めと共にその存在が許容される。その中で赦しは諦めとして立ち現れていた。
魔女たちの、魔女にされたものたちの怒りは、行き場なく彷徨い、それゆえに自ら魔女になったものによる奇跡が和解に要請される。
そしてそこではキャリバーンは魔女の奇跡を助ける都合のいい機械となる。 -
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近藤銀河 (spiralginga@fedibird.com)'s status on Monday, 03-Jul-2023 21:09:27 JST 近藤銀河 そうした若い世代の特異性の象徴として、そして若い世代の中でも特殊な存在の象徴として、スレッタとミオリネの同性愛的な描写があるのだけど、同時に同性愛を作中社会の中で特別なものとして描かない真っ当さが、その同性愛の象徴化という問題性と異常さをむしろ浮き彫りにしていて、同性愛を作中社会では当たり前のものとして描けない(そして主人公であり第一話では視聴者の視線を導入するスレッタはそれに驚くという形で現実との重ね合わせがある)結果として、ここでまた妙な真っ当さの結果あらゆる恋愛関係が平等に暗示にとどまるという描写が出ているのかもしれない(でも結婚して子供はうまれる)。ただそれは作品内で完結しているかに見える作中描写が、実のところ現実における偏見や思い込みを利用していることで裏切られるのだけども。
ただ、同性愛を当たり前として描こうと少なくとも試みたこと(少なくとも作中人物は誰も否定や差別をしない。それはそれで不思議とうか曖昧な誤魔化しでもあるけど、曖昧さによる和解の成立という点で一貫してるのかも)、そういう真っ当さはキャラクターデザインの多彩さに現れていて、その点は美点でもあると思う。 -
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近藤銀河 (spiralginga@fedibird.com)'s status on Monday, 03-Jul-2023 21:30:03 JST 近藤銀河 新しい居場所が出来たからあるいは「新しいストーリー」を持ってることは「誰かが選んだステージ」を否定するものでも、その場所を選ばないことではない、というのも割と『水星の魔女』の大事な点なのかもしれないけど、この部分に関してはシナリオや設定の都合もあってうまく描ききれなかった感じがする。いや描き切れなかった物はたくさんあるけど、最終回でもこの点は描こうとしてはいたので。