おはようございますとどん。
今朝は六時起きして本を読んだりなんだかんだり。先ほど、ぴろきちさんとの授業動画を聞きながら出勤。
教育とは何か、あらためて、ぼくなりに考えを深めたいなあ、と思ったのと。
来週、二回目の哲学対話をやるのだけども。個人主義的に哲学的探究を深めることと、他者・共同性との関係を、あらためて自分の中で整理したいなあ、と思った。→
おはようございますとどん。
今朝は六時起きして本を読んだりなんだかんだり。先ほど、ぴろきちさんとの授業動画を聞きながら出勤。
教育とは何か、あらためて、ぼくなりに考えを深めたいなあ、と思ったのと。
来週、二回目の哲学対話をやるのだけども。個人主義的に哲学的探究を深めることと、他者・共同性との関係を、あらためて自分の中で整理したいなあ、と思った。→
→朝に読んだ本は、梶谷さんの『考えるとはどういうことか』。この本に依拠して、哲学対話実践に挑戦しているのだけども。色々と学びえるものが多い本ではあるのだけど、個人と共同性との関係が、どうしても気にかかる…。
フェミニズム、ケアの思想を経由していると、必然的に気になる部分なのだろうな、と思う。
ここ数日は、色々と考えている。問いに出会う、とは、困難に出会う、ということ。自覚的に。それは、苦悩となって現れる。マイナー性(自身がマイノリティである、という性質)に衝突する、ということでもある。
実は困難に出会っているのだけど、出会えていないときがある。ぼくも小中高大とそうだった。適応できており、自由が制限されながら、それなりに楽しく、それなりにまったりと生きていた。
ぼくの場合、大卒後に自覚的に困難にぶつかったわけで。それまで、問いに出会っていなかった、と思う。→
→ベル・フックスの言葉を、たびたび思い出す。フェミニズムや人種、階級に関わる学びを学生さんに提供すると、学生さんたちが、辛そうになっていく、と。それまで見えてきたものが変わって見えてくる。
また、『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』でも、似た構図の場面があった(夜話参照)。ぬいぐるみにしゃべる。世の中の理不尽さを言語化する。すると、辛くなっていく。
フックスが言うように、それでも、こうした出会いは必要なのだ、とも思う。それは見ないようにしていただけで、ずっとマイノリティはあった現実である。それを見ないように隠すことは、単に、マジョリティが目を背けていることの追認でしかない。マジョリティには安全に感じても、マイノリティには危険でいっぱいの日常なのだ。だから、暴く。暴くことこそ、公正である、と。
ぼくが学生さんたちの学びに関与しようとするなら、このフックスに依拠した発想になる。
だから、危険がいっぱい。『ぬいしゃべ』でも、繊細な若者たちが、想像力を拡張させ、ケアが過剰化して、受傷性を高めてしまい、生きるか死ぬかの状況に置かれていた。→
→若いというだけでマイノリティでもある。しかし、自らのメジャー性(マジョリティである性質)も帯びている。交差している。そんな若者たちに、踏み込んだ学びへと関与することは、本当に危ない。そんなふうに感じる。
梶谷さんの哲学対話実践、ほぼ全面的に依拠しているのだけど、「何を言ってもよい」というルールは採用しないでいる。ぼくもオンラインの哲学対話に関わっていた時期があり、このルールが危うい、と感じる瞬間があったから。
ここで言う危うさは、まず、マイノリティに対する危うさ。と同時に、最近思うのは、傷つくマイノリティだけでなく、傷つけるマジョリティの危うさも感じる。加害性を生じさせることのリスク。
梶谷さんの掲げる自由は、まだ、抽象的な気がしている。切れば血が出るような、人を相手にした自由になりきっていないのではないか。確かに他者は必要だが、抽象化し観念化した人間観による他者ではなく、切れば血が出るような他者として、自由を構想すべきではないか。→
→教育原理の授業担当者として、教育とは何かについて、もう少し真剣に取り組まないといけない気がしていて。がっちり論文を書いたのは2015年。『自由が上演される』で大きな刺激をもらったけど、教育原理的に考察を深めるに至っていない気がしている。ちょっと前から読み始めたのが苫野さんの教育原理の本で、これも基本的には批判的に読み進めている。真理としての哲学。現象学を用いていても、その観念的な部分は変わっていない、と感ずる。大切なのは他者であり、苫野さんの議論にも、根本的な他者不在が臭う。
最後にはフックスにも戻りたいし、『フリーターにとって自由とは何か』へも迂回したい。教育とは何かを考えると、自由の問題にぶつかる。他者と、そして、学びへの関与と。これらの問題に、自分なりに納得いくまで思考を深め、そして学生さんたちの前に出たとたんにゼロになって、教育実践を行いたいと思う。→
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