実際ね、アカウントロックなしで自分でマストドンをやめられる人は「自制心がある」と言われて賞賛されるわけですよ。それに対してアカウントロックによって0時にマストドンをやめることを強制されていますと公言するだけで私から「自制心」は失なわれるわけですね。で、これは自動アカウントロックの運用をしていると公言せずに秘密にしていれば私は「自制心」のある人になって周りから褒められるわけですね。
「自制心」なんてそんなものです。
実際ね、アカウントロックなしで自分でマストドンをやめられる人は「自制心がある」と言われて賞賛されるわけですよ。それに対してアカウントロックによって0時にマストドンをやめることを強制されていますと公言するだけで私から「自制心」は失なわれるわけですね。で、これは自動アカウントロックの運用をしていると公言せずに秘密にしていれば私は「自制心」のある人になって周りから褒められるわけですね。
「自制心」なんてそんなものです。
私は自由になるために自由意志を否定しているのであって自由自体を否定したいわけじゃないんですよ。
私は0時にはマストドンをやめたい、でも放っておいたらマストドンをやめることができない(これは「意志が弱い」と呼ばれている)。この問題に対して「意志を強くしてマストドンをやめられるようにする!」としたところで「意志を強くする」具体的手段など存在しないので失敗するだけである。
それに対して、「意志の弱さ」を一切問題視することなく、0時にアカウントロックしてしまえばわざわざサーバーに ssh して解除しない限りは続けられなくなるんで、0時にやめられる可能性が高くなる。
これは私の「思い通り」に行動を制御できていることになるので、自由意志を前提にしている場合と比べて私は自由になっている。
「自由」は舐められている。直接的な支配が見られなければ自由というのは根本的に正しくない。
学ばないと自由にはならない。
ソフトウェア開発者がユーザーをコントロールできてしまう現在の状況の根本原因はユーザーがコンピューターに精通していないところにある。なぜ壊れたソフトウェアを直す権利がユーザーにないことが問題にならないのかといえばユーザーにソフトウェアを直すスキルがないからだ。
行動分析学は自由意志を否定するが、行動を制御する方法を教えてくれる。行動分析学を使って自分の行動をコントロールできる人と自分の意志に頼っているだけの人とではどちらがより「自由」だろうか。
私は地理に詳しくなく旅行をしたいと思ってもどこに行けば楽しいのかよく分からない。その意味で私は自由に旅行ができるとはいえない。
これは自分の知っている領域についてだけの知見で思うことなんだけど、結局のところ「自由」の実現には知識が必要で十分に知識がないと選択肢が存在しないので自由であることはありえないんだよな。
人を拘束していないというだけで自由であるとはいえない。自由のためには教育が必要。
これについても結構考えててオブジェクト指向とRDBの設計は根本的に異なっているので ORM には原理的に問題があるように感じている。
ORM の存在がこの想定をぶっこわしそうで怖いんだよなあ。
たぶん、Web 開発の大半を占めるのはユーザーの入力を DB の操作に変換して、DB の出力をユーザーにとって閲覧しやすい形に変換する作業につきるんじゃないかと甘く見てるんだけど、この想定と現実の間のギャップがどれくらいあるのかが気になってる。
趣味で Web 開発っぽいことをちょっとしてみたんだけど、自分がやった限りの感覚ではプログラミングよりも DB のテーブル設計の方が遥かに重要で、テーブルの設計さえ確定すればそれに対して適切なプログラムは一意に定まるんじゃないかなあって思ってる。
スキナーがすごいのはこれをやったからなんだよな。猫の実験箱をやってメリットの法則を導いたソーンダイクとはそこが違う。
たしかにな。行動分析学の革命的な実験方法にフリーオペラントっていうのがあるんだけど別にあれも真に自由なわけじゃないからな。
というかあれの実験で行動の自発の法則性が見つかって自由でないことが分かった。
仏教と同じ末路を辿ってしまうんじゃないかなあ。あれはただ諸行無常と諸法無我を理解して楽になろうねっていう話だったのに、普通の人には意味分からんから方便作りまくて分けわからん宗派が大量埋まれていって混沌としてしまった。
ACT の心理的柔軟性モデルは結構危険な領域に足を踏み入れているような感じがする。
人工知能と認知科学の文脈でも内側から問題に気づいた人もいる。ルーシ・A・サッチマンという方で、『プランと状況的行為 人間-機械コミュニケーションの可能性』という本で人間のプランがそもそも状況に依存していることを指摘して前提から間違っていることを痛烈に批判した本。
これは昨日届いたんだけどまだ読んでないから私はまだ評価できない。
CiNii 図書 - プランと状況的行為 : 人間-機械コミュニケーションの可能性
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA44028372
世俗の常識よりも妖怪ウォッチの人間観の方がはるかにマシである。
妖怪ウォッチの数が少ないことは問題だが、妖怪ウォッチがあるなら妖怪を分析できるし、妖怪と人間行動の関係について研究できるし、妖怪を用いて人間行動の予測と制御までできる。
現実には妖怪ウォッチなどないのに妖怪みたいなものがあるとして社会が成立してるし研究もされている。
「やる気ウォッチ」とか「意志力ウォッチ」とか「○○感ウォッチ」とか「○○力ウォッチ」みたいのが実在するなら、それを使って研究すればいいわけですよ。でも実際にはそんなのなくて行動しか観測できないんだから、研究の対象を行動にするのが当然だろう。
妖怪みたいなものをテーマにした研究で「再現性の危機!」とかいってもあたりまえ過ぎて話にならない。
「脳科学者」も脳について説明する限りは問題ないが行動について言及し始めると怪しくなる。
脳科学者は入力と出力の関係を完全に解明してから行動の説明を始めてくれ。脳と出力の関係が分かっただけで脳を使って行動を説明するのは早すぎる。
右側 Alt キー省略は Emacs ユーザーの私にとってもブチ切れ案件ですね。
いま実験したんだけど、私はタブを大量に開くのでウィンドウを掴める場所が左の部分と右の部分だけになるという実害は一応あるな。
うそ、Windows もそうなの。私の居場所はもう GNU/Linux しかないじゃん。
GNU Guix ユーザーの Lisper で、自由ソフトウェアと行動分析学が好きです。最近は ACL2 に自動推論させて定理を証明させるのにはまっています。注意このアカウントは深夜0時から朝7時までの間、自動的にアカウントがロックされるように設定されています。どんな状況でも0時を越えた途端に一切の反応がなくなるのでご了承ください。
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