今朝もその道を通って仕事に向かったけれど、もう気にするのはやめた。
というか、今朝はそちらに意識を向けずにその家の前を、通り過ぎてしまった。何か考えていたように思うけど、思い出せない。でも、そちらに意識を向けてもな、と思ったら割とどうでも良くなった。
その後、鳥たちの鳴き声を聞いていたら、気分が晴れやかになった。もう、その家の事は、これからは目にとめることも、気にすることも無くなるだろう。
今朝もその道を通って仕事に向かったけれど、もう気にするのはやめた。
というか、今朝はそちらに意識を向けずにその家の前を、通り過ぎてしまった。何か考えていたように思うけど、思い出せない。でも、そちらに意識を向けてもな、と思ったら割とどうでも良くなった。
その後、鳥たちの鳴き声を聞いていたら、気分が晴れやかになった。もう、その家の事は、これからは目にとめることも、気にすることも無くなるだろう。
朝、それを横目で見ながら通り過ぎた。悲しかった。
そしてその日の帰り道に通りがかった時には、そのポスターを貼ったであろう住人が、わざわざスマホを持って、貼ってある家の壁の様子を撮影していた。誰かに自慢するんだろうか。党首や党員に認められたいのかもしれない。そういう行動を起こさせるような、仕掛けみたいなものもあるのかもしれない。
その人のお住まいなのでとやかく言う筋合いがないのはわかっていても、繁茂する植物たちまで、何か別なものに染められてしまっていくかのような、鈍い重苦しさを感じた。
日本保守党のポスターだ。
落ちているのを見たときに、正直に言って、そして控えめに言っても「うわ、ヤバ!」という気持ちしかわかなかったそのポスターが、素敵だなと感じる家の壁に、キレイに、そしてベタベタとなっているのを見て、幻滅したし、悲しかった。
そのポスターがなぜそこに貼ってあるのかも理解した。とある集合住宅のガレージの出入口が、その家の真正面なのだ。見てほしい、という強いメッセージを感じずにはいられない場所に、貼ってある。
朝職場まで徒歩で移動していく道の途中に、たくさんの植物が生い茂った大きめの庭がある一軒家がある。
その植物たちは、住んでいる人ががとても良くお手入れをされていて、季節がいい頃合いには色んな花が目に入って、素敵な感じだなと思っていた。
つい数日前、その道をいつものように歩いて家に向かっていたら、見慣れないポスターが道に落ちていた。
私は、その政党のポスターがなぜこんなところに落ちているのか?と思ったけど、へー、支持者がこの近くにいるんだねぐらいの認識だった。
翌朝、いつも見かけているお家の壁にそれが貼り付けられているのを見るまでは。
@lematin
FLINTA、ですかね?
自分が「推し」ている対象は、自分の主観によって「賞品として消費」していることもある、それがまさに「推し」ている当人に負担をかけているかもしれないっていう観点がないと、自力で踏みとどまれないんじゃないかな。
アイドル系・芸能人では無いんだけれど、今回のことに似たような事があって、自分が「推し」を作ってしまうことが本当に良いことなのかどうかをすごく考えた時期が有る。
盲信的ファンダムの危うさとかファンダム内で経済的にどれだけ熱心に支えたのかでヒエラルキーみたいなのが生まれてく感じとか。全部うっすら体験したことだ…と思うので、いつか見た光景だな。
ファンダムを差別するなみたいな声もわからなくはないけど、一方で今一番問題なのは何なのかがその声で掻き消えてくのは違うんじゃないの。
Twitter、「性暴力」と「女性嫌悪からくる差別」が看過されすぎてて、怖いを超えてしまっていて「ヤバい」レベル。
昨日はリンゴのキャラメル煮をたくさん作った。
全てを灯油ストーブの上でやる、つまり、最初の工程の「グラニュー糖をキャラメル状になるまで火にかけて放置する」という箇所も、コンロで火にかけるのではなくて、ストーブの上で熱しながらやるという実験をしてみたんだけど、成功した。
今朝はホットケーキと共に食べて美味しかったし、残りは煮沸消毒後の瓶に入れて保存。
今日はその後なんだかんだと土をさわる作業が発生し、からだを動かして汗をかいた。
明日は大量のゆずを煮詰める予定。
すっごい手間だけど。
それと、ご高齢の方が猫を飼っているが自分が亡くなった後の猫をどうするのかについてのサービスなんかはすでに考えられているかあるっぽいよ。
ただ、今回話題になっている猫サブスクはそういうのとは別な問題点を孕んでいるということは、頭においたほうが良いのではないのかな。
なかなか役に合う人が見つからず、番組に携わっている人から声をかけられてオーディションで選ばれた、と短い番宣では言っていた気がする。
…あとからサイズを増やしているとは思わなかった…
とある配信で、シスヘテロ男性がセクシャルマイノリティ女性に、とある人権侵害について当事者から話を聞きたいと取材して配信していた時に、途中で感覚の違いが浮き彫りになっていく場面を見た。
マイノリティ的にはその肌感覚というか、しんどさはすぐに自分の身に置き換えてわかることなんだけど、一瞬、取材する側が事の重大性について「大したこと無い」ムーヴになりかかってしまい、画面越しにその後の緊張した空気が伝わってきた。
それでも、その男性はすごく何とかしてその事件について伝えようと、感覚の違いやご自身の無知についてはその場で修正しながら、マジョリティの人権侵害について掘り下げて伝えようともしていた。
はじめから、何でもわかれとは思わない、けどあまりの理解のなさに「……」となるのも事実。でもそれ以前にすでに何度もそういう見えない壁みたいなものに直面してると、話すことすらしんどくなるっていうのはある。
マジョリティ、自らのマジョリティ性に自分で気づくの難しいんだろうなって思う。
一度も、マイノリティになる、または立場が弱くなるという経験の無い人は特に、気がつかないんじゃないのかなと思うし、自分だってどこかの場では、一見マジョリティ寄りに見られるし、なんなら場によってはマジョリティになることもあるだろう。
「いっつもマジョリティが何かに気がつくための鏡として、マイノリティを利用しないでくれ」っていう感覚はよくわかる。すごく。
「左前」が何かわからなくて調べたわ。
昨日、旭日旗掲げてFIFAに没収されてたけど、だいたいなんも意味分かってない人たちだよ。
十字軍っぽい服着てカタールに乗り込むイングランドのサポーターと大して変わらないし、そういう「層」に向けてやってる。
この根深さ、こうなる心理を誰かに分析してほしい。これ別にどこの国でも似たようなところ有ると思うんだけど。
昨日、日章旗掲げてFIFAに没収されてたけど、だいたいなんも意味分かってない人たちだよ。
十字軍っぽい服着てカタールに乗り込むイングランドのサポーターと大して変わらないし、そういう「層」に向けてやってる。
この根深さ、こうなる心理を誰かに分析してほしい。これ別にどこの国でも似たような所有ると思うんだけど。
「ムーミン谷の11月」を読み終えたので、最初の「楽しいムーミン一家」からまた読んでいこうと思う。
仮説に過ぎないけど、いわゆるバズりって、やっぱり脳の報酬系にも根本的変化が起きてしてしまってヤバいのでは無いのかなって感じる。
でも特に根拠はないよ。なんとなくね
本人が自分をサゲる表現をすることで笑いを取る文化がかつて一部であったんだけど、今はもうそれは「第3者が他人を勝手にサゲていい」事と勘違いするので、やめた方がいいんではないかと思う。
それと同様に他人の風貌についてとやかく言うのも早く終焉するといいなと思う。
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