今日のキッチンは小松菜のお味噌汁◎
ご飯を炊いてお味噌汁さえ作ってしまえば、あとはオカズなんてなんでもええんです。冷蔵庫に入ってますでしょ、納豆とかお豆腐とかお新香ですとか。オカズなんてたいそうなものを用意してやらなくていいんです。お味噌汁がもう充分にオカズでしょ、これ、ね。
って土井善晴さんの声が聞こえる。
今日のキッチンは小松菜のお味噌汁◎
ご飯を炊いてお味噌汁さえ作ってしまえば、あとはオカズなんてなんでもええんです。冷蔵庫に入ってますでしょ、納豆とかお豆腐とかお新香ですとか。オカズなんてたいそうなものを用意してやらなくていいんです。お味噌汁がもう充分にオカズでしょ、これ、ね。
って土井善晴さんの声が聞こえる。
うんうん。私もそう思う。
"よく「好きに理由なんてない」とか嘯く人がいるけれど、私はそれを真っ向から否定する。ある女優の顔面が好きになるのも、あるサウンドの響きが好きになるのも、ある服飾のスタイルが好きになるのも、そこには必ずコードと構造とコンテクストとがバキバキに張り巡らされていて、言ってみれば「理由しかない」。"
たくさん声出してきた。喉痛い。濁りなく通りのいい声を出し続けるって、大変なこと。
私たちの一票で政治を変えることができる、裏金政治にNOの声を届けるチャンスなんだってことを、駅前で一人一人に語りかけるように繰り返し伝え続けてきた。
お疲れ様でした◎
批判を真顔で語りきることを避ける仕草ってホモソーシャルだなって思う。批判を真面目に語りきると、場がシーンとする。間が生まれる。そこに生まれる『間』こそが批判という行為が引き寄せる『思考に与えられた時空間』であるのに、その『間』が広がっていく隙を与えないということを同時にやっているんだろうな。人の真面目さを揶揄うことの裏返しをやってしまってるように感じる。
今日のタイムラインはどのお野菜が一番キマるかって話してます?
都知事選について、小池百合子が3投目の構えに入ってるの、本人の「自分にはまだやるべき務めがある」と思ってる構えすら腹立たしいよ私は。だって東京に暮らしの関わっている人たちが貧困になって困窮し困難に陥っているというのに、税金で都庁を光らせたり五輪開催したり戦闘機飛ばしたりする人だよ?それが「3投目投げますよー」だって。馬鹿にされたもんだよな、都民も。
よくできました💮🙆♀️
子どもたちは本当に頭がいいし柔軟力があるし敏感だしよく見てるしよく習ってるし真似てる。子どもに対して、『子供騙し』が通用すると見做して交渉を省いてる大人に対して、彼らは『話を聞かない』つまり交渉のテーブルにつかないと拒んでいるんだと思う。
だって私の知ってるマイクラキッズたち、私と話をするとちゃんと決めた時間にマイクラ終わらせるもん。納得してればやるんだよ。押し付けるから話を聞かないんだよ。
「子どもにいちいちそんなジックリ時間かけていられない」というのも、その通りだと思う。今の日本社会は養育者を勤労に奪っていくからね。国の仕組み自体が子供たちから親を奪うDVシステムであって、擁護者は疲れ果てて時間も気力もゆとりもないもんね。でも「だから、できない。これでもやってる」じゃなくてさ、政治の話をしないとそこは。選挙権のない子どものために、親ができることとしてさ。
地元の住宅街を友だちと歩いてたら、通りかかりの婦人に「あなた、素敵ね。そのポンチョがとてもよく似合ってる。遠くからみていても、ずっと素敵だったのよ」と声をかけられた。私はこうした出会いがよくある。ふんわりと歌うように「ありがとうございます」とお礼を挨拶した。
そこで最近お気に入りのターンを舞おうかと思ったけど、曲線を描く自信がなくて躊躇ってやめてしまった。
でもなんだか「ありがとうございます」ではコミュニケーションが物足りない気がして名残惜しい。せっかくそんな素敵な出会いの機会がここにあるのだから、何かドキドキ高鳴るようなサプライズを出せたらな~、と思う。お礼の舞いで驚きとクスっと笑いの残る出会いにしたい。キメのターンを練習しようと思った。
ITとかデジタル化を今の政権に任せておくと「やはりデジタル化は辞めておいた方がいいのでは」という風評が生まれて、ますますIT化が遅れる気がする。IT化というのはエンドにいるユーザである市民にデジタル感覚や操作を押し付けるものではなくて、今まで役所でのたらい回しが常態化していたものをワンストップで手続きできるように、紙と判子によるドキュメントが縦型組織上に整理されてた情報を市民のIDごとにデータベース化することなんじゃないの?
私はID制というマイナンバーという概念はいいと思うんだけど、今は馬鹿が弄ってるからすごいダメなものとしてイメージされていってる。だからここからまた一周してくるまでIDごとのデータベース化は進まないし、結果、役所手続きはたらい回しが続くんだろうな。
『全ての差別に反対します』がその言葉通りの意味を通り越して、「全ての差別に反対します!※ただし◯◯は含まない」みたいな、ヘイターが「お前らの言ってる差別は差別ではなく区別だろ」という差別表現として使われてきたことを思うと、「全ての差別に反対します」はすでに一部の人にとってはミームであるわけで。とするならばよほどに「この表現しかあり得ない」という検討に検討を重ねてないのなら、あまり安直に使おうとは思えないかなぁ。
4つあったちくわぶの3つを食べられてしまったので、次から増やそうかなと思って同居人のJに「ちくわぶ好きなの?」って聞いたら「うーーん、あんまり」って。
え、え、えぇーー!?好きじゃないのに食べてしまったの?私のちくわぶを?私の大好きなちくわぶを、あまり好きではないのに食べておしまいになられたとおっしゃるの?
やるせなくない?
やるせなくなくないない?
描きかけのパステル画
“スピ”への批判はファシズムやトランピアンやテロリズムやセクシズムやレイシズムへの批判であり、私はそれらを批判する人たちと連帯したいし、連帯してると思ってる。私自身、トランピアンや反ワクや参政党などある種のムーブメントを便宜的に呼ぶなら『スピ』だろうと思う。ネットミームとして『スピ』がどんなことを織り込んだ言葉なのか、一応はわかってるつもり。そしてスピリチュアルに生きることと、ファシズムやテロリズムを解体していくことは同時にできるはず、とも思ってる。
時々は「でも、“スピ(スピリチュアル)って、本来の意味は違うからね」ってことは怒り気味に言っておこうとも思う。
『スピ』って言葉が批判や揶揄のように使われてるのを見ると、なんか『バカにしていい対象』として見られているんだなって感じる。そして同時に自分自身にも同じように社会批判のつもりで属性呼びを使ってデカ主語で語るときあるし、属性で纏めて『だからそういう奴等はダメなんだ』に帰結させては自分の苛立ちを落ち着けようとしてることあるな、とも思う。“奴等”という言葉は人をグループ化して線引きをし『こちら側とあちら側』と二分にして問題を単純化したい時に出てくる言葉。批判力の底力のない社会では、批判できる人に負荷が大きいからね、批判の中である種の単純化が起きてることを私は批判する気になれない。そんな時、私はネットミームというハイコンテキストな単語を使う気がする。つまり『スピ』という言葉が批判として使われてる時は、それはスピリチュアルそのもののことではなく、ハイコンテキストなネットミームとして使われてるのだろうと思う。だから私は“スピ”という言葉を批判として使ってる文章は、その奥にある文脈と意図を嗅ぐようにする。
生活保護は自分で畑をやっちゃいけないし、畑で採れた野菜も申告しろと言われる。自分で野菜を作ると、収入扱いになるんだよ。
生活保護の暮らしに対する想像力のない人というのは、一人世帯の場合の生活扶助費が『70,000円』だと聞くと、一か月に食事や雑費に70,000円使うことをイメージすると思うんですね。しかしまず光熱費と通信費で25,000円出ていくので、食費と雑費は45,000円です。
で、例えばコインランドリーは都内だと一回にだいたい700円くらいかかります。生活保護受給者は着替えもそんなにもってないので、どんなにどんなに工夫して切り詰めても一カ月に衣服だけで5〜6回、その他にシーツや布団カバーも洗うから、洗濯代は毎月4,000円以上かかります。
さて、これだけでもう食費が一週間に10,000円を切りました。当然ですが雑費は足りてません。もちろん衣服費だってありません。靴下を買うためには食費を削らなくてはなりません。穴の空いた靴下を見た人が不憫に思って買ってくれたのなら、申告しなくてはなりません。
それで、今の生活保護法は「違憲である」と判決がでたんですね。でも判決を無視することへのペナルティがないので、生活保護費は改定されませんでした。
離婚して逃げ切れたと思って、母子家庭でお金はなくてもせめて安眠できるようになった人たちを、また恐怖に落とし込む法案なんだよ。
共同親権に賛成票入れたヤツ、そんなに母子家庭が憎いのか!夫に見切りをつける妻の存在が許せないのか!家族規範から逸脱する者に罰を与えたいのか!💢
🖕😡🖕
「明日は我が身」とか、「いつか自分もそうなるから」というアプローチは、言わなくていい一言、言わない方がいいコメントな気がします。それをつけないと何か文章が落ち着かない気がするのなら、特権側が抱える罪悪感や不安によるものなのでしょうから、なおさら落ち着かないまま、それらの代わりとなる言葉が出てくるまでモヤっとした空白に耐えることも必要な気がします。
「明日は我が身」とか、「いつか自分もそうなるかも」っていう言葉のカウンターアクションって確かに未だ多くあって、それを言ってる人たちはまだそれを知らない層へのリーチアクションのように思ってやってるんだと思うけど、でも実はその言葉を使ってる人自体がまだ問題にリーチできてない、『所詮は他人事』という特権レンズでしか見えていないから出てくる言葉なんじゃないかなとも思う。
「明日は我が身」って言ってる人ってだいたい、私からすると「いやいや、お前も人権削られて流血してるじゃん。なんで他人事だと思ってんだよ。痛くねーの?他人事じゃなくない?」って感じだし。あと「いつか自分もそうなるかも」はアライ(連帯)アクションではないんだよね。(これは極論だけど)アライアクションって『この先も自分がそうなることはない』人が連帯するからアライなんじゃないのかな、と。
Drug rights are human rights!薬物の権利は人権ですし。🏳️⚧️Non-binary(she/her)/Non-monogamy/Relationship-anarchy/Quoi-romantic/Asexual🏳️🌈
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