欧州大陸における近代哲学の変遷などを紐解いていくと、必ずぶち当たるのが公共と私領域の構図。最近は公共圏と親密圏とも言われるが、そのの差異、その違いのわからない人が、保守系だけでなくいわゆる左派リベラル的な立ち位置の中にも一定数いて、そこが「表現、言論の自由」なり「ポリティカル・コレクトネス」に絡む言説を無駄に費やしているのが、ここ十数年の流れで、特に日本の場合は相当に拗れていて、正直に言えば積極的に議論に絡んで行きたいとは到底思えない無惨な光景が広がっている。
その昔、自営業者時代に業界団体の中の人として、ホラー映画規制やら児童ポルノ規制などでいろいろとネット上に情報を提供したことがある身として、今の惨状にいたる責任の一端がなくもないわけで、非常に忸怩たる思いもある。しかし公共という概念を左右に関係なく壊しにかかっていることは、社会として極めて危険な兆候であり、やはり何らかの意思表明は続けていかなくてはならないとも思っている。