「戦災孤児」の問題は戦後80年経っても終わっていない。今も続く問題です。
私の母方祖父も東京大空襲による戦災孤児であり、旧植民地の華僑であるということしかわからない。生年月日も、そして名前(日本名/和名)も、幼ない祖父にいつの間にか与えられていたもので、祖父の生来の名前や生年月日は戦火に葬られ、もはや何もわかりません。
ルーツを辿ることが出来ない残酷さ、アイデンティティ・クライシスに陥る辛さは孫の私も実感しているところです。
日本には先の戦争で空爆/空襲で被害を受けた人たちや戦災孤児になった人たちが沢山いて、祖父のように存命の人もまだ沢山いて、空爆や戦争によって傷つけられた人がなんとか築いた家庭に生まれて色々苦労した私の母や、私のような人だって沢山いるはず。
「終わった話」や「昔の話」ではなく、ずっと今の話で、ずっと瘡蓋のまま。
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Ubu (ubuhanabusa@fedibird.com)'s status on Wednesday, 16-Apr-2025 06:11:35 JST Ubu
- Erscheinung49, わきまえないナニカのぴっち 삧치 ∀🌻, るまたん and 早川タダノリ repeated this.
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Ubu (ubuhanabusa@fedibird.com)'s status on Wednesday, 16-Apr-2025 06:11:41 JST Ubu
約4歳で戦争孤児になった祖父は、末期癌で余命宣告されている今でも、「たぶん弟がいた」という記憶を抱えて生きてるし、もう正確に辿ることすらできない自分のルーツに思いを馳せている。
祖父は「養護院ではしょっちゅう仲間が死んだけど、そしたら俺の分の食事が少しでも多くなったから、子供の自分は嬉しく思ってしまった」と私に話したし、残りの日々でいっぱい好きなものを食べようというときでさえ「早食いの癖がどうしても抜けなくて、恥ずかしいから高級店での外食はしたくない」と言う。
私が進学で大阪から東京に来るとき、祖父は「東京は怖いとこやで、行ったら帰って来れんなるで」と冗談半分に言った。満州から東京へ来て、東京大空襲で戦災孤児になり、大阪までたらい回しされてきた祖父の言う「東京は怖いとこ、帰って来れん」という言葉に、たとえ冗談だとしても私は何も返せなかった。
戦災孤児の問題は全く終わっていない。戦争孤児に親の情報を提供するのは本来、戦争を起こした国家の責任なはず。戦災孤児に関する調査や、情報の集約が必要だったし、戦災孤児への支援も必要だった。国は今からでも機関や窓口を設けて、せめて存命の当事者やその子世代以降を救済して然るべきだと、私はずっと思っている。