今朝見たニュースをもう一つ。
戦争はもはや無人機なしでは成立しないそうな。
ウクライナもロシアもドローンを増産しているとのこと。
そもそも戦争の本性は「生存のための必然的な闘争」ではなく、ルーツは戦士=貴族の祭、つまり遊びだ。ご褒美は名誉だった。その限りにおいて戦争は美的な価値を持つ。
それがナポレオンあたりからおかしくなってきて、クラウゼヴィッツが「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」などと言いだし(このテーゼは政治もまた貴族の遊びであるという含意の元でのみ真実である)、戦争が総力戦になって、ついで非戦闘民の無差別殺戮が始まり、都市の空爆という、それ自体「手を汚さない戦闘」を経て、ついには戦争の完全な無人化がおきる。
無人機も人間が遠隔操作をするのではなくAIが自律的にターゲットを選択するようになるだろう。多分もうなっている。もっとも無人化は殺す側だけの話であり、殺されるのが生身の人間であるのは今も昔も同じ。
つまりもう、戦争には何の意味もない。ボクシングの試合にブルドーザーを持ち込むようなものだ。そろそろ我に返ってもいいんじゃないか人類。
いや理想論とかそんな話ではなく。
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Satoru Hasegawa (tsbasatoru@toot.blue)'s status on Friday, 23-Feb-2024 09:50:04 JST Satoru Hasegawa - るまたん repeated this.
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Satoru Hasegawa (tsbasatoru@toot.blue)'s status on Friday, 23-Feb-2024 09:50:03 JST Satoru Hasegawa 全く無意味なIFだが、近代日本が徳川時代ではなく信長の時代に接合されたなら、もう少し大人な日本人が生まれたであろう。戦国時代の日本人は大名から坊主から農民に至るまで「政治的」だったようだし、天皇という名の思考停止にも陥っていなかった。その頃の日本はたぶん、小さなヨーロッパのようなものだったのではないか。
るまたん repeated this. -
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Satoru Hasegawa (tsbasatoru@toot.blue)'s status on Friday, 23-Feb-2024 09:50:04 JST Satoru Hasegawa もっとも、ドローンやAIといったテクノロジーの誕生を待つまでもなく、大日本帝国がアジア各地に仕掛けた戦争は十分に「現代的」なものだった。wikiの「戦争論」の項を読んでいたら、クラウゼヴィッツを日本に紹介した人物の一人に森鴎外がいたそうな。こやつは「かのように」という顰めっ面しい短編を書き、軍医として参じた日清日露戦争では脚気の対応を誤って三万くらいの兵隊を死に追いやっている。「かのように」は、近代世界に追いつこうとする日本でいかに天皇制を存命させるかというテーマで苦悩する知識人を描いたものだった(たしか)。
これもwikiの受け売りだが、クラウゼヴィッツの理論においては、実際の戦争において、暴力が極限的に行使されるとは考えられておらず、そこに政治が介在すると考えられているとのこと。第一次大戦時のドイツの右派はクラウゼヴィッツが政治の概念を戦争の上位に据えたことに異を唱え、いや戦争が政治の上位にあるのだと主張したのだという。さもありなん。
同じく、明治から昭和にかけての日本国にも「政治」がなかったと言える。そして現在のイスラエルにも。ENZZO repeated this. -
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Satoru Hasegawa (tsbasatoru@toot.blue)'s status on Friday, 23-Feb-2024 10:49:07 JST Satoru Hasegawa 元々戦争は、他の何かのためではなく、ただ己のためだけに、戦争をするという、ただそのことのためだけに生まれたものだった。戦争というものの本質的な自己目的性は、その派生物であるスポーツを見ればよくわかる。
で、近代以降、この剥き出しの自己目的性にベールをかける役割を果たしてきたのが「政治」なのだが、すでに政治は表向きの大義名分すら失いつつある。
すると古代の回帰が起きる。
すなわち神国日本、第三帝国、汎ロシア、シオニズムだ。
結局現代とは、テクノロジーに裏打ちされた古代のパロディに他ならない、という定式化ができる。
大日本帝国と零戦はその栄えある先駆けだった。