SNSで多くの人と繋がることができたおかげで、生きていればそれとして出会う機会が非常にわずかであるような「当事者」の存在が可視化されたことは、確かによかったことかもしれないけれど、その結果として「ある話題について話すそのアカウントは【当事者】なのかどうか」という問いが、明らかに度を越えて重視されるようになってしまったのは、いくつかの意味で悪い帰結をもたらしたように思う。第一に、そのせいで全ての「当事者」がその当事者集団の代表として見なされる可能性が増した。結果としてヘイトのターゲットになるような「当事者」は沈黙を選ばざるを得なくなった。自分ひとりが「当事者集団」の利害を代弁する能力など持てないと考えるから。第二に、そのアカウントの持ち主に「当事者性」が存することが、当該【当事者集団】の利害についての主張の妥当性を担保する要素として著しく重視される結果を招いた。しかしすぐさま明らかなように、ある当事者集団の利害に反する主張を公然と行う「当事者」は多いため、差別を是とする人々によって「当事者もこう言っている」という利用のされ方をした場合に、反論に過大なコストがかかるようになってしまった。
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高井ゆと里 (yutoritakai@mstdn.jp)'s status on Thursday, 03-Aug-2023 12:22:50 JST 高井ゆと里 - サトマキ and 周司あきら repeated this.
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高井ゆと里 (yutoritakai@mstdn.jp)'s status on Thursday, 03-Aug-2023 17:15:56 JST 高井ゆと里 ある種の「当事者」であることがもたらす経験が、社会の不公正な構造を否応なく理解させる契機となったり、常識と化している社会実践の歪さを暴くきっかけになることは、確かにある。例えば『埋没した世界――トランスジェンダーふたりの往復書簡』という本を読んで、これを性別移行を経験しない人びと、シスジェンダーの人びとにも書けると思う人はいないとわたしは思う。しかしそれでも、何らかの政治主張を行う主体が「当事者」であるか否かを重視し過ぎることには危険の方が大きいとわたしは思い始めている。結局それは「誰が当事者なのか」という線引きを是とすることであり、ことトランスジェンダーについては「トランスジェンダー」と「そうでない人びと」の線引きを行うことがいつも必要であるかのような期待を増す。そして部分的に繰り返すけれど、ある種の「当事者」であることは、あるいは場合によってはそうだからこそ、その(当事者)集団が置かれている社会・政治的状況や、それに伴う権利や利害の問題について正しい知識を持っていることを保証しない。そしてわたしは、そんなことを全員ができなければならないのならそれこそが差別があることだと思っている。