ある種の「当事者」であることがもたらす経験が、社会の不公正な構造を否応なく理解させる契機となったり、常識と化している社会実践の歪さを暴くきっかけになることは、確かにある。例えば『埋没した世界――トランスジェンダーふたりの往復書簡』という本を読んで、これを性別移行を経験しない人びと、シスジェンダーの人びとにも書けると思う人はいないとわたしは思う。しかしそれでも、何らかの政治主張を行う主体が「当事者」であるか否かを重視し過ぎることには危険の方が大きいとわたしは思い始めている。結局それは「誰が当事者なのか」という線引きを是とすることであり、ことトランスジェンダーについては「トランスジェンダー」と「そうでない人びと」の線引きを行うことがいつも必要であるかのような期待を増す。そして部分的に繰り返すけれど、ある種の「当事者」であることは、あるいは場合によってはそうだからこそ、その(当事者)集団が置かれている社会・政治的状況や、それに伴う権利や利害の問題について正しい知識を持っていることを保証しない。そしてわたしは、そんなことを全員ができなければならないのならそれこそが差別があることだと思っている。