SNSで多くの人と繋がることができたおかげで、生きていればそれとして出会う機会が非常にわずかであるような「当事者」の存在が可視化されたことは、確かによかったことかもしれないけれど、その結果として「ある話題について話すそのアカウントは【当事者】なのかどうか」という問いが、明らかに度を越えて重視されるようになってしまったのは、いくつかの意味で悪い帰結をもたらしたように思う。第一に、そのせいで全ての「当事者」がその当事者集団の代表として見なされる可能性が増した。結果としてヘイトのターゲットになるような「当事者」は沈黙を選ばざるを得なくなった。自分ひとりが「当事者集団」の利害を代弁する能力など持てないと考えるから。第二に、そのアカウントの持ち主に「当事者性」が存することが、当該【当事者集団】の利害についての主張の妥当性を担保する要素として著しく重視される結果を招いた。しかしすぐさま明らかなように、ある当事者集団の利害に反する主張を公然と行う「当事者」は多いため、差別を是とする人々によって「当事者もこう言っている」という利用のされ方をした場合に、反論に過大なコストがかかるようになってしまった。