俗流ニーチェ主義者は「正義の感情は弱者のルサンチマンから来る」などと「知ったかぶり」を披露することがあるが、これは間違っている。
大体これでは、「競争に負けた人は優秀な人の足を引っ張らないでほしい」と宣っている竹中平蔵と同じ。
例えば、年収200万非正規労働者が役員報酬数十億のCEOに対して「搾取」されているという「感情」を抱くのは全く正当であり、この「搾取」への「怒り」を言語化した時、CEO(や竹中平蔵)から「ルサンチマン 被害者感情」と見えるものは、当事者達にとっては「正義」の感情になる。
これは一人の心理の変化をみてもそうだ。自己責任論を内面化し、それ自体としては正当な部分もある「被害者感情 ルサンチマン」に突き動かされていた人間も、「搾取」と「支配」という現実を言語化し、その言語が内面にフィードバックされれば、感情それ自体が次第に「恨み」ではなく「怒り」へと化学変化し、「怒り」は「正義」の扉を開ける。
一度扉が開かれれば、自己破滅的な「自己責任論」ではなく、複数の他者たちとの複数の正義を「熟慮」する道へと繋がっていくのである。