ヤマザキマリは”文化・教養を積み上げる努力をしない者”による”無自覚に破壊してく社会の到来”を語っている。
その例示として”蛮族による古代ローマ帝国崩壊の兆しや、ポルポト、そして文化大革命など”を挙げているが、行為主体を”外国人”と言及もしている。
提示される論の賛否以前に、ただただ彼女の言っている事を聞いたとしてもポルポトや文化大革命は”外国人”ではないので話の辻褄は合わなくなる。
私は日本で人生の大半を過ごしているが、みな善人という前提で人類皆兄弟なんて思ったことが無い。
もし仮に海外生活が長くて、長く過ごしていてやっとみな善人ではないと気付いたのであれば、そんな人物の言う事を世の中のリアルみたいな意見として拝聴する意味があるのだろうか。それだって拝聴する価値がある事も十分あるが、夢想家の戯言ではないか。
人類皆兄弟だろうが兄弟は他人の始まりだろうに。
”地球上で発生する社会や民族の生き方は、その地質や土壌、風土によって違ってくるのは必然です。倫理も法も、そこに発生する宗教も、それぞれ、自分たちの土壌に適した形に象られていく。”のであれば、風土も土壌も変化をして行くものであり、それは外部からの刺激によっても変化しうるものだろう。風土も土壌も変化するなか、人だけ変わる必要がないと、そこだけ固有のモノであるべきなどと言う話は冷静に考えればその理路の整合性の無さが分かるだろう。
”古くからのお得意さんで成り立っている下町の小さな銭湯が、『ロンリープラネット』(=旅行ガイドブック)を抱えた外国人だらけになってしまったら、もう私には悲しさしか残らない。”と言うが、実際の銭湯はどうなっているのか知っているか。古くからのお得意さんだけで成り立っている下町の小さな銭湯は多いのだろうか。わたしは2019年くらいまでずっと銭湯通いをしていたが、銭湯はどんどん減っている。一番仲良くしていた銭湯は歌謡会を開いたり力士を読んで催し物を開いたり、ご新規さんを集めるのに必死だった。
そもそもいにしえの銭湯文化なるものがあるとして、それを継承して通う日本人がどれほど残っているのか。銭湯文化を継承していないご新規の日本人と外国人がいるとして、外国人だけがなぜ悪く言われなくてはならないのか。
”自然界隈でも、外来種が増えて日本固有の自然の生態系が崩れていくと、皆大騒ぎをするではないですか。”としてグローバリズム的なものへの疑義を呈しているが、これは典型的な反グロオーガニック右翼の論法ではないか。
ってちょっと思ったかな。