田中克彦『ことばと国家』p.51
「ドーデのこの短編は、日本では『国語愛』を説くための伝統的な教材に仕立てあげられているが、その歴史的背景を考えてみると、これほど問題をふくむ作品はない。……いまなお七〇%のドイツ語(あるいはアルザス語)を母語とする住民において『母国語』としてのフランス語を『死んでも奪われまいと決意する』のはどう考えても奇妙な、つじつまのあわない話である。」
同、pp.125-126
「ドーデは、『ドイツ人たちにこう言われたらどうするんだ。君たちはフランス人だと言いはっていた。だのに君たちのことばを話すことも書くこともできないではないかと』というふうにアメル先生に言わせているのである。いったい自分の母語であれば、書くことはともかく、話すことができないなどとはあり得ないはずだ。だからこの一節は、この子たちの母語がフランス語でないことをあきらかにしている。」
同、p.127
「『最後の授業』は、まさに日本のアジア戦略のさなかに、『国語愛』の昂揚のための格好の教材として用いられた」