長い距離を延々と歩く人々を眺めていると、お遍路やスペインのサンティアゴ巡礼路の巡礼者のようである。これらの旅路は宗教的な意味合いが込められているが、そのもっとも基礎の部分には、延々と歩くという過程がもつ人生それぞれの姿の圧縮効果があるからではなかろーか、と考えていたことがあるのを思い出した。
山でガイドをしていた時、下山路で客がまるで自白剤を打たれたかのように自分の人生を懺悔のように滔々と語り始めてとまらなくなるのを私は何度も経験しており、死ぬ前の走馬灯みたいだなあ、と思っていた。肉体が許容するギリギリまで歩くという行為は宗教性、あるいは心理セラピー効果を惹起するのである。そう考えると、TJARを走り抜けた人々は、それぞれの人生を8日間で体現した、まさに現代の山伏なのかもしれない。