→ それから、これは異論もあるだろうが、笙野頼子氏との意見交換(?)の記録や、氏のトランス排除論への批判が後半の重要な題材のひとつになっているのだけれど、その批判は批判として疑いようもなく明確に成立させつつ、本書自体は、にもかかわらず、ある意味で笙野頼子作品へのオマージュ的な側面を持つように感じている。
本書において「おおやけ」「わたくし」の境界という問題は、冒頭で触れた単純な物語上の仕掛けにとどまるわけではもちろんなく、伝統的なフェミニズムの問題系を引き継ぐと同時に、本書がより具体的に扱うテーマ、とりわけトランスに象徴され、けれどもそれだけに限定されるわけではない、マイノリティに関する知と情報の流通という問題(つまりセジウィック的に言えばクローゼットの問題)と、直接に繋がっている。
そして、公私の境界線という問題に超現実的な想像力と爆発しそうに豊穣で多様な文体とをもって取り組むフェミニスト文学作品という点で、本書はかつての笙野頼子作品に通底するものを持つのではなかろうか。
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