以上の知見から、私は「人権批判は注意深く行わなければならない」と主張する。なぜなら、それは人権を弱め否定したい勢力に悪用されるおそれがあるからだ。
ローティの人権批判への私の反論は、以下のようになる。問題なのは誰かを非-人間化する言説なのであり、人権という概念なのではない。そもそも、ひとりの人間が"共感"できる対象は、限られている(共感はコストが高い)。日本の入管に収容された外国人、性別違和感に苦しむトランスジェンダー、ヘイトスピーチを受けている在日外国人、ガザで虐殺される人々、ウクライナの占領地で殺害された一般市民たち、さらには歴史を遡り、広島・長崎の被害者たち、ホロコーストの被害者たち——すべてに"共感"していたのでは、とうてい1人の人間の容量には収まらない。人の判断コストを下げ処理容量を増やす上で、国際人権法という明文化されたルールは非常に重要である。そして人権という概念はローティが唱える『分厚い物語による共感』『連帯のための言葉』となんら矛盾しない。
(続く