第五章
民衆にとっての朝鮮人虐殺の論理 加害の論理にせまる
“労働者風の硬い筋肉をした真黒の髯男が、その仲間と話している。/〔中略〕男はウスキーを持っている。/「どうです、旦那一ぱい……」。/髯面が出してくれた茶碗に水を汲んで、それにウィスキーをニ、三滴たらして飲んだ。〔中略〕「旦那、朝鮮人はどうですい。俺ァ今日までに六人やりました。」/「そいつは凄いな。」/「何てっても身が護れねえ、天下晴れての人殺しだから、豪気なものでサァ。」(『横浜市震災史』5)”
“「何てっても身が護れねえ、天下晴れての人殺し」。お咎めを受けずにおおっぴらにやれる公認された人殺し、それも「身が護れないから」という正当防衛だからこそと認識”するが、その認識自体が流言による“想像上の危機意識”であったこと。
“「豪気なものでサァ」という表現からは、警察が役に立たない時に、自分が「活躍」していることへの誇らしさや、本来刑事罰を受ける殺人行為ができることへの解放感すらうかがえる。
こうした認識や感情は、軍や警察が民衆の暴力行使にお墨付きを与えたことが前提となっているが、殺人行為に対する民衆自身の能動的な姿勢も読み取れる。”