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- Embed this notice@gnusocialjp まさに、そのアサーティブ・コミュニケーションを正しいと信じて貫徹する部分が、時に理解されない部分なんだろうな、と思います。自分はぐぬ管さんの主張は理性的だと思うし、自分はそういう種類のコミュニケーションをやってもいいんですが、一方で、そういうコミュニケーションの方法自体が苦手な人も多いということを言っているわけです。それはどちらのコミュニケーションの方が優れているとか正しいとか、そういうことではなく、単に文化や多様性の問題だとは思うのですが、自分としては、ぐぬ管さんが正しさを主張するのもわかる一方で、正しさを主張される側の恐怖感も分かってしまい、苦しさを感じるのです。基本的に、人間は自分の間違いを指摘されるのは嫌に感じるものだろうと思います。十分に理性的で、嫌でもそれが正しいと納得すれば行動を直せるとは思いますが、よく知らない人間からよく理解できない理屈で誤りを主張されるのは、基本的には怖いです。ぐぬ管さんは相手を尊重しているとは思いますが、それでも、表現には、怖い部分が残っていると私は感じます。裁判による解決は、理屈としては正しくても、多くの人にとってはそれ自体が怖いです。正確で執拗な記録は、それ自体が怖いです。徹底的な公開性は、怖いです。ぐぬ管さんが信じる正しさそれ自体に、多くの人が怖いと感じるものが含まれているという点の不条理さに、私は苦しさを感じます。もしかしたら、やり方を工夫すれば、そういう種類の「正しさへの恐怖」は本質的なものではなく、回避可能かもしれません。ただ、今のやり方では、うまくいっていないように見えます。