ここで皮肉に思わざるを得ないのは、中山のような連中は植民地に近代化を押し付けたことを「功績」として誇る割に、マッカーサーが日本に「押し付けた」民主主義を親の仇のように憎悪していることです。押し付けられたことにあれほどアレルギーを感じるのに、押し付けるのは一向平気という。
ここで大事なのはおそらく、「押し付け」自体の「善悪」ではなく、押し付けられた側がそれをどう受け止め、どう葛藤して自己のものとしていった(せざるを得なかった)かを考えることなのだろうと思います。だから植民地に対しても、その地の人びとが何を感じどう動いたかを知ることが肝要でしょう。
結局は他者への想像力ということに行きつくわけで、歴史修正主義者は自己と他の区別が融解していたり(過去の国家体制と自己を同一化)、他者への想像力が決定的に欠如している(自己愛の肥大)ので、他者への想像力を前提とした言語コミュニケーションは成立困難になるのでしょう。