だから、植民地に鉄道や道路、病院や学校を整備するというのは、決して慈善事業ではなく、「近代化」を押し付けることでよりよく植民地を支配でき、究極的に自国の利益となるからです。それが結果的に植民地の利益になったからといって、威張るような話ではないし、まして現代の我々とは無関係です。
「無関係」というのはちょっと語弊があるか。つまり、誰も当事者に代わって「功績」を自慢できないし、「責任」を詫びることもできない。しかし、自分の属する共同体が過去にそういったことを行ったことは、認識して受け継ぐことは責務であろう、私はそのように捉えています。
で、もう一つ究極的な問題としては、「近代化」が結果的に進んだことは、果たしてアプリオリに「良いこと」としていいのか、というのがあります。ここには近代化自体の価値判断と、それが外部から強圧的に降ってきたことの価値判断と、二つがあります。