そもそもスポーツを最初にやるきっかけの多くは、ただ転がるボールを追いかけたり、投げて何かに当てたりすることの楽しさや、終わりのない鬼ごっこやタクシーごっこをずっと続けるような、風や水を切って動くことの興奮や楽しさだと思う。それがいつの間にか学校代表や国代表の責任であるとか「適正な身体」を持っていること(それは場面ごとに基準が変わる)や「運動能力が高い」ことを証明するためのテストでいい結果を残すためといった、スポーツの楽しみにとって「余計」なことに意識が覆われて、そもそもなんでスポーツや運動をするのかということが置き去りにされてしまう。だから体育が嫌いだった人が大人になって、自分の意志とペースで運動するようになったら楽しかった、ということがしばしば起きる。プロスポーツはエンタメにもなるし、その道を選ぶ人を否定する気はない。だけどスポーツを経験する圧倒的多数(99.99%以上)の人がプロのアスリートにならないことを考えれば、エリートモデルのスポーツがメディアでも教育でもこれだけ幅を効かせる状況はスポーツの可能性を狭めてしまうし、何より家父長制のツールであり続けることを許してしまう。