つまり、4話&8話は、フェミニズム的映画にも反フェミニズム的映画にも見える。それが決定不能である。リベラルでケア的な優しい男性の限界あるいは欺瞞を描いた映画であるようにも、男性がどんなにケアし承認し寄りそってもひたすら女性に否定されるという苦しみを描いた映画にも見える。しかもさらにいえば、『驚異の部屋』全体においては、「人間がクトウルフ的邪神に体を乗っ取られ、肉体を内側から食い破られ、人間から非人間に生成変化すること」こそが究極の恐怖であり、同時に究極の悦楽である、というモチーフを扱っているようにも見える。とすれば、じつはそれらと無関係に見える4話&8話もこの流れの中にあり、すなわち、クトゥルフ的な邪神とはそのまま「女性」のことであるとも言えるのではないか。実際に4話では、男は妻によって殺され、内臓を抜かれ、剝製にされてしまうのであり、妻は剥製の夫と夫婦生活を続けるのである――それこそが男性にとって究極の快楽であり享楽であるのかもしれない。とすれば、『驚異の部屋』全体は、かなり高度なポリティカルコズミックホラーであり、(アンチ)フェミ二スト的な映画である、ということになる。