【2/2】(塚本さんが終戦を迎えるまで)の間、父・保次さんの生死は不明なままだった。
実は、6月23日の第32軍司令官・牛島満中将の自決後、「祖国のため最後まで敢闘せよ」という司令官の命令に従い、沖縄本島南部の洞窟に潜伏していた。
通信技術の専門で航空情報隊の隊長だった保次さんは、終戦への動きも電波を傍受して察知していたとみられるが、8月17日になって安全を確かめながら米軍に投降。その際に米軍将校から、降伏を拒み続けている部隊への説得を依頼された。
保次さんは「おこがましいが、友軍を救うためならどんなことでもしよう」と返答。8月19日に渡嘉敷島と阿嘉島の部隊に対し、「誠に残念であるが、天皇陛下の命令に服し、連合軍に降伏することが日本軍の義務である」と私信を送り、投降へと導いた。
「『最後まで敢闘せよ』と命じながら、司令官が自決した。そのとき、父はどういう気持ちだったのか。『こんちくしょう』と思っていたんじゃないか。司令部がなくなっちゃったのに、兵たちには自分たちだけで戦えなんて、勝手すぎる。だから父は米軍と戦わず、部下とともに隠れながら命を永らえることを選択したんじゃないかと思います」
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S@凸 (satotsu@toot.blue)'s status on Thursday, 02-Jan-2025 13:00:59 JST S@凸 -
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S@凸 (satotsu@toot.blue)'s status on Thursday, 02-Jan-2025 13:01:01 JST S@凸 戦場に行かなくとも軍人教育でトラウマになる(この方の場合どちらかと言えばDVか)。
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父は太平洋戦争末期の沖縄戦を戦った陸軍大佐で、自身も学徒兵になった。軍国主義の真っただ中を生き延びた鍼灸師の塚本此清さん(99)は「戦争で死ぬのは怖くなかった。それよりも、早く昇級して上官を殴り返したかった」と苦々しげに振り返る。当時の上官は、こう言い放っていた。「(戦争に)負けると思わなければ、負けない」。そんな狂気のような精神主義に覆われた軍隊の中で、塚本さんたち学徒兵は理不尽な暴力に耐え続けた。【1/2】「戦死は怖くない。それよりも、早く上官を殴り返したい」 精神主義と暴力に満ちた軍隊を生きた99歳元学徒兵の本音とは | 47NEWS(2024年12月24日掲載)
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