コロナウィルス禍において「誰の」いのちが見捨てられるのか、ということついては、もう少し考えておくべき問題がある。昨年夏から今年のはじめにかけて、政府によって強行されたGoToトラベルキャンペーン政策においてよく話題に上がったのがm「『命』か、『経済』か」という言葉であった。「そんなもの、命に決まっているだろう」「経済を動かすのは生きている人間なのだから、命あっての経済だろう」「両社が比較対象になるということ自体がおかしい」というのはなるほどその通りである。ただ、「命か、経済か」という言葉で実際には何が意味されているのか、ということをもう少し考えてみる必要がある。
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カンミ (pantabekanmi@mastodon-japan.net)'s status on Friday, 20-Sep-2024 08:34:34 JST カンミ - るまたん repeated this.
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カンミ (pantabekanmi@mastodon-japan.net)'s status on Friday, 20-Sep-2024 08:34:34 JST カンミ 経済が回らなければ、倒産や失業が相次ぎ、自殺者も増えるだろうし、一気に貧困に陥ることで文字通り失われる「命」も出てくるだろう。この当時COVID-19による肺炎が重症化して亡くなる患者というのは、実際のデルタ株とは異なって、ほとんどが高齢者であった。つまり、「命か、経済か」と言うときの「経済」というのは実は「(経済を回す人々の)命」なのであって、先の言葉は「ある種の命と別種の命のどちらを優先するか」ということ、具体的にいえば「もはや働くことで経済を回す主体にはならない高齢者の命」と「働くことで経済を回す主体になる比較的若い人々の命」のどちらを優先するか、と言い換えることができる。ここにはすでに本書で繰り返し話題になる「いのちの価値をめぐる序列化」「いのちの選別」という事態が潜んでいるのだ。
『京都ALS嘱託殺人事件と人工呼吸器トリアージから見捨てられる<いのち>を考える』
[08:03]
安藤泰至・島薗進編著 川口有美子・大谷いづみ・児玉真美著
#カンミ読書