昨日、ようやく『エブリシング・エブリウェア・オール・アットワンス』を(家で)みた。
全体としては、アメリカのアジア系移民の現実(差別、困窮、言葉の不自由さ、第一世代と第二世代の対立、伝統との矛盾…)を、ポップな映像と断片化されてランダム化されたナラティヴによって語った映画である。
こういう映像の作り方がここ20年くらいの方向性だよな、とか、このタイトルって「話を複線化して再構成してクライマックスで全部解決する」という古典的な映画の文法だよな、とかいろいろ考えたことはあるのだけど、家族研究の関係者としては親子の断絶の語り方にとても興味を惹かれた。
この映画で、主人公である移民第一世代の女性は、青年期を迎えた娘と対立していて、それがストーリーの主要な要素になっている。ところが、この主人公は自分の父親とも対立していて、かつてはそれで親元から失踪して移民しているのだけど、本国から訪問してくる父親との対立も大きなテーマになっている。
そして、この2つの断絶を、主人公は「わたしは自分の子どもに親との断絶を経験させない」という信条によって解決しようとするのだ(続く)