「理解してくれる誰かがいてくれればいい」については、発信の内容によって受け止めてくれる人は変わると思う。固定ファンではなく、情報で決まる。そのとき「誰が」という作者性さえ喪失されるかもしれない。
俺が言った、俺が作った、を自慢するのはかっこいいものではない。
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Es (nues@gorone.xyz)'s status on Tuesday, 02-Apr-2024 07:41:00 JST Es -
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Es (nues@gorone.xyz)'s status on Tuesday, 02-Apr-2024 09:39:11 JST Es もちろん自慢やエゴではなく、純粋に発信者の署名性が大事な場合もある。
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Es (nues@gorone.xyz)'s status on Saturday, 06-Apr-2024 09:10:56 JST Es ところが子供の頃(今でも)、ポロッと出た言葉(意図せず無意識に、自分らしくもなく)に、先生や友人がいたく感心することがある。言葉ではなく、発言した「私」が祭り上げられ称賛される。言ったのは私だが、何か別のものが私に言わせた、という乖離感が喉につかえて気まずい…そんな思い出。
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