加害本人が亡くなっているとはいえ、ジャニーズ事務所の性加害事件は、刑事事件に該当する犯罪行為で、事務所は犯罪を黙認どころか推進していた犯罪組織と呼ばれうるということが軽視されるあたり、なんでも情でぐだぐだにしてしまう日本社会っぽいですね。
「性被害」と被害のほうに焦点を当てるのは、「加害」に焦点を当てると刑事事件に該当し、関係者は刑事罰に当該するということに注目があたってしまうのが嫌だからでしょうか。
加害本人が亡くなっているとはいえ、ジャニーズ事務所の性加害事件は、刑事事件に該当する犯罪行為で、事務所は犯罪を黙認どころか推進していた犯罪組織と呼ばれうるということが軽視されるあたり、なんでも情でぐだぐだにしてしまう日本社会っぽいですね。
「性被害」と被害のほうに焦点を当てるのは、「加害」に焦点を当てると刑事事件に該当し、関係者は刑事罰に当該するということに注目があたってしまうのが嫌だからでしょうか。
どうも、自主避難者を批判していた人と、記者会見のルールを守らないことが許せない人がかぶっているように見えるので、事情を問わず「ルールを守る」ことが重要なものとして規範意識に刷り込まれている日本人はおおいことをあらためて感じました。
私自身は福島に住み続けることは可能と思っていましたが、自主避難者を批判する人たちがずっと不思議だったのでした。
個人の選択だし、別にあなたが迷惑かけられているわけでもないのに、なぜそんなに批判しなくちゃいけないのか。
その人たちが、今回、記者会見でのルールを守る必要性を力説しているのをみて、なるほどなぁ、日本人の規範意識ってこんなふうに強固に刷り込まれているものなんだ、とあらためて実感しました。
福島案件でも、「被災者がどう思うか」と、被災者や被害者の評価だけが絶対の判断軸であるかのように公的に語られることが多く、ずっと違和感を感じていました。
処理水の放出のときに、漁業者の判断にすべてを委ねられることに、漁業者は強い拒否感を示したのですが、それとまったく同根だと思います
被災者の評価や判断とは別に、地域の持続可能性や社会のあり方、政策決定の妥当性についてもしっかり問われなければいけないのに、そこはすべて飛ばして、「被災者がこう言っている」ですべて話を収めようとしてしまうのはすごくおかしいと思うのですが、今回のジャニーズの件でも、「被害者がどう思うのか」が前面に語れていて、これも日本社会の変なところだと思います。
こういうやり方をすると、被害者がすべて判断責任を負わせられることになってしまう。
おそらく、判断責任を自分は絶対に取らず、他人に預けるという日本人の思考習性が顕著に出ているのだと思います。
子供の頃から、自分で考えるな、他人の顔色を伺って、まわりに合わせろ、特に上の人間のいうことには問答無用で従え、という教育を社会全般でしてくれば、大人になって突然「自分の頭で考えろ」と言われても、なにをどうすればいいかわからないし、できるわけもないので、誰かに判断を預けるか、教条的にルールに従うか、になってしまうのでしょうけれど、激動の時代にこれでは、社会の発展はないように思います。
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