9月3日の大島町8丁目での中国人虐殺事件は、翌日9月4日には、警視庁は概要を把握し、野重第3旅団長及び戒厳司令部参謀長に死体処理と中国人保護を要請している。
警視庁広瀬外事課長直話は次の通り。
「目下東京地方にある支那人は約4,500名にして内2,000名は労働者なるところ、9月3日大島町7丁目に於いて鮮人放火嫌疑に関連して支那人及朝鮮人300名乃至400名3回に亘り銃殺又は撲殺せられたり、…右支鮮人の死体は4日まで何等処理せられず、警視庁に於ては野戦重砲兵第3旅団長金子直少将及戒厳司令部参謀長に対し、右死体処理方及同地残余の200名乃至300名の支那人保護方を要請し、とりあえず鴻の台(国府台)兵営に於て集団的保護をなす手筈となりたり。…
尚全管内の支鮮人の保護は軍隊警察に於て之に当り管下各警察に対してはそれぞれ通達済みなり。」
戒厳令司令部は、即刻森五六参謀を現地に走らせた。
森五六は「江東の大島地区で、中国人土工約200名が日本飯場土工により虐殺されたのを現場検証した」と1962年11月21日、京大人文科学研究所で話している(「関東大震災下の朝鮮人虐殺」/「思想」1963年)