糟屋郡(かすやぐん)は、福岡県(筑前国)の郡。
人口234,683人、面積164.64km²、人口密度1,425人/km²。(2022年10月1日、推計人口)
以下の7町を含む。
宇美町(うみまち)
篠栗町(ささぐりまち)
志免町(しめまち)
須恵町(すえまち)
新宮町(しんぐうまち)
久山町(ひさやままち)
粕屋町(かすやまち)糟屋郡と粕屋町では「かす」の漢字が異なっている(糟は常用漢字外)。
郡域
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記7町のほか、下記の区域にあたる。
福岡市
東区の大部分(馬出・東浜・西戸崎・志賀島・勝馬・弘を除く)
古賀市の全域概要
郡名の由来は不明だが、その歴史は古く、京都の妙心寺の国宝梵鐘には「戊戌年四月十三日壬寅収糟屋評造舂米連廣國鋳鍾」という銘があり、戊戌年、西暦698年に舂米連広国(つきしねのむらじひろくに)という糟屋評(こおり)の長官であった人物がこの鐘を鋳造させたことが記されている。その後も、『筑前国風土記』(逸文、713)、『日本書紀』(720)、『延喜式』(927)、『和名抄』(931–938)に一貫して「糟屋」という文字で現れる。『日本書紀』に記された磐井の乱の経緯が史実ならば、大和朝廷に筑紫君葛子が糟屋の屯倉を献上したのは528年となる。 『和名抄』によれば10世紀当時糟屋郡には香椎郷(カスヒ)・志阿郷(志珂の誤りか)・厨戸郷・大村郷(オホムラ)・池田郷・阿雲郷(阿曇の誤りか)・柞原郷(クハラ)・勢門郷(セト)・敷梨郷の9郷が存在した。
福岡藩時代およびそれ以前より1889年(明治22年)に町村制が施行されるまでは、糟屋郡北部は裏糟屋郡、南部は表糟屋郡に分けて支配されていた。
郡域南部には粕屋炭田と呼ばれる炭田が広がっており、明治以降石炭産業で栄えたが、1960年代にエネルギー源が石炭から石油へ移行したため郡内の炭鉱はすべて閉山し、人口・産業などの面で衰退した。その後、隣接する福岡市の発展により…