うーん、やっぱり大切だと思うから、たぶん何回目かになってるけれどまた言っとくと、差別というものを考えるとき、「差別する心」にフォーカスしすぎて、それが差別の唯一の源泉であるかのようにアプローチすると、必ず失敗するんだよ。
なぜなら端的に、心は検証不可能だから。心を問題にするかぎり、「差別の意図はなかった」という聞き飽きた言い訳に、おれたちはうまく対抗することができない。
より重要なのは、具体的な行為や発言、それによって発生する被害という効果、被害からの回復可能性であり、また差別を可能にする社会的な構造。
「差別する心」にもっぱらフォーカスして、言動やその効果、構造から目を逸らす、というのはむしろ、差別を温存したい側の使う典型的なトリックだよ。それがたとえば、日本における部落差別解消推進法であり、ヘイトスピーチ解消法であり、LGBT理解増進法。もちろん、これらにまったく意味がなかったかといえば、良くも悪くもあるわけではあるけれど、これらの法律は「教育および啓発」で「差別する心」を改善しようと謳うことによって、実質的な差別効果の軽減や差別的な社会構造の改善の責任を、国家が免れようとした結果生まれたものなんだよ。
見てると、いい人たちこそ、こうしたチートにひっかかりやすいんだよね。だから、気をつけて。