これに真面目に反論すれば、「ヒトの社会」の「複雑性」を理解していない、とはなるのだろうが、保守と極右の区別もついていない中村に、これを説いてもあまり意味があるとも思われない。
少し嫌味を言えば、中村は生物学についても、どうも「何も理解していない」ようだ、ということになる。
ところで、問題の本質はむしろ「朝日」や「アエラ」が繰り返し、壊れたテープレコーダーのようにこの種の言説を再生すること。
星野智幸の「正義の暴走」的な発言も同じ構図。しかも東京新聞の論壇時評で中島岳志が、一面全部使って星野擁護をしているとあっては、救われない。日本の文学・批評は「もう死んでいる」と言っても過言ではない。
実際、今回の中村のように目立つ形でなくても、人文思想・文学批評の世界では30年以上前から「声高でなく」という副詞がクリシェになっている。最初は戦略的な意図もあったのだろうが、中村の世代では、ただ悪い意味で「ナイーブ」に使っているだけ。
他方、ネトウヨ大王東浩紀は「大声で」反PC、保険証廃止、原発全面再稼働、緊急事態条項擁護、さらには斎藤兵庫県知事の側面援助と続けている。これで「訂正の哲学」などと宣っているのだから片腹痛いとはこのことである。
人文思想言説も一度「無に帰る」時が来たようだ。