ハン・ガンの「少年が来る」を読んだ。光州事件で市民の側にいた、中学生から大学生ぐらいまでの若い人たちの姿がそれぞれの目や家族の目で語られる形式で、登場人物はそれぞれの語りに互いに登場することで交錯する。国家暴力にただただ撃たれ、殴られ、踏み潰されて死んでゆく、あるいは拷問の末に何年もたってから自死する若い人たちの姿がそこでは描かれるのであるが、その描かれ方は決して暴力的ではない。そして詠歌のように描かれる事件の数日間は、その前の日常とその後の決して終わらない記憶のなかにしっかりと配置される。スベトラナ・アレクエシェビッチの「戦争は女の顔をしていない」の描く戦争が暴力的な状況の中での暴力的ではない詳細とそれぞれの人生を語ることでその陰惨さが影絵のように浮き彫りになるのとどこか似ていると感じた。アレクエシェビッチのように、「なにがあったか」ということに、歴史家的ではなく、そこにいた一人ひとりの人間にこだわりつづけるところもよく似ている。