『「くぐり抜け」の哲学』を読んだが釈然としない気持ち。議論が散漫になっており、また引用の批判的検討がなされておらずつぎはぎな印象というのもあるが、主題であるクラゲの主観を云々する点について、(フッサール→ハイデガー→メルロポンティ的な意味で)存在者とは何かという点について掘り下げた議論が全然ないように思える。生活環の複雑さや独特さ、自他の境界面でやりとりされる情報だけに着目するのではなく、脳がないという明らかに重大な差異により導かれる内的状態・内的経験の違いを議論する必要があるだろう。非生物システムであっても、境界面により情報をやり取りする複雑なものや独特なものがあるのだから、存在者として際立たせる特徴は内面に(も)求める必要があると思う。
そういうわけで、結局のところクラゲの擬人化イメージについての言論であり、クラゲの主観そのものにアプローチしていないと考える。その釈然としなさは先立つ論文現象学のプラグマティクス──内的経験の探り方のコウモリの話題で同じことがいえると思う。書籍中ではいろいろな類比の構図が語られるが、文学的なイメージの世界のクラゲではなく、実際に存在するクラゲと本質的な特徴を共有する人だなんていうたとえは成立せず、クラゲとヒトは大きく隔たっていると認めるべきだと思う。あるいはクラゲから類推される、人間のあり方の可能態の一つとしての想像にとどめるとか。
全体的に煮え切らない粗雑なアイデアという印象を受けた。著者が以前に書いた論文の方が読みやすくて面白いかもしれない。
性というパフォーマンス(2)─性の語り、共同幻想、同意の現象学
ありのままの生とインタビュー中心主義の帰趨――「ケアの現象学」の素朴さが映すもの
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ゆりは (yuriha@misskey-square.net)'s status on Thursday, 21-Nov-2024 04:30:48 JSTゆりは