1923年の今日10月13日は、上海の新聞各紙で関東大震災時中国人虐殺の報道が一斉に始まった日でした。
10月11日、大島町事件の唯一の生存者である黄子蓮(頭部重傷・右耳切断)が千歳丸で帰国、翌10月12日には神奈川で被害を受けた王国章(左腿刀傷)、馬岩昌(頭部刀傷)、張順禄(左腰刀傷)、葉清福(左肩刀傷左後頭部傷)が山城丸で帰国します。
皆酷いケガを負っていて港は大騒ぎになりました。
彼らの口から、大島町事件・王希天事件が伝えられ最初の報道になります。
この報道がその後の10月15日から掲載された衝撃的な告発書である王兆澄の調査結果「日人惨殺華工之鉄証」に繋がって行きます。
日本からの送還船は9月8日以降続々と上海に到着しており、その中には当然虐殺事件の被害者もいました。
ただ、迎える側もケガ人がいても地震なのかそれ以外の理由なのかは分からず、当初被災者達も自らが事件を告発するという事が出来ない人々でした。
10月12日に上海に到着した山城丸には日本の官憲の目をくらまして偽名で労働者になりすました王兆澄が乗船していました。
王兆澄は王希天の親友で、一緒に僑日共済会を設立し、米国への留学が決定していた王希天から8月31日に僑日共済会の会長を交代して就任していました。 9月2日、王兆澄は暴漢に襲われ受傷し、王兆澄に代わって王希天が会長として行動し、その後虐殺される事になります。
王希天が行方不明となると王兆澄は必死の捜索を始めますが、日本の官憲による尾行・妨害にあい、活動の自由を失い、習志野収容者の送還がはじまった事から、帰国し調査する事を決断します。
当初王兆澄は10月5日に芝浦から千歳丸に乗船するつもりでしたが日本官憲の妨害にあい失敗、神戸に移動し再度乗船を試みますがこれも失敗し、翌日の山城丸にやっと乗船に成功します。偽名で労働者としての乗船でした。
王兆澄は船中で労働者達と接触し、帰国後すぐにケガ人収容の手配や虐殺事件に関する記者会見をします。
そして帰国後避難所である四明公所に収容されていた労働者と起居を共にしながら精力的に調査を進めます。
この時四明公所には1,248名の温州・青田出身者が滞在していて、その中には黄子蓮や黄国章ら虐殺事件の被害者もいました。
この四明公所で王兆澄は、習志野に収容された者のうちの温州出身者のほとんどと会ったと考えられています。
送還船、そして四明公所での調査の結果が、10月15日から11月30日までの間で断続的に発表、各紙に掲載される「日人惨殺華工之鉄証」です。