言語の選択が可能なソフトウェアにおいて「やさしい日本語」が活きる場面といえば、当該ソフトウェアが提供している言語のうちユーザにとって最も習熟度が高いのが非母語としての日本語のみであるような場合だろうけど、そのようなケースは現実にどの程度存在するものなのだろう