反差別の実践を「気にせずに済む者」の知的遊戯にしてはならない。言論のアリーナ論を肯定的に捉える者は、まず自らが「気にせずに済む者」であることを認識する必要がある。
言論のアリーナで「言論」どうしを闘わせているつもりかもしれないが、注釈をつけたり安全対策を施すなどの、シーソーの傾きをならす無数のパラメータ調整をしないままヘイトスピーチを闘技場にあげてしまうことはあってはならない。なぜならヘイトスピーチは、マイノリティ当事者を問答無用で闘技場に引きずり上げるため、言論という概念どうしを闘わせているつもりでも、実際には「悪意の塊としての言論vs丸腰の当事者」という状況を作り出すことになる。
その様子を観客席という安全地帯から観ていることを「反差別の実践」と呼ぶことはできない。それは反差別の「実践」ではなく「論評」であり、冷静に状況を分析する自分という知的遊戯に酔いしれているだけである。
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R sekiguchi (gucchi_penguin@fedibird.com)'s status on Wednesday, 01-May-2024 09:39:26 JSTR sekiguchi