事故炉の廃炉作業のような、きわめて公共性の高い事業でさえ、私的な思惑中心で動いていくことが、日本には、公共メンタリティが本当に根付いていないことを痛感させられます。
誰も彼も、自分や自分の組織の都合や保身ばかりで、全体の最適解がどこにあるのかを、わずかでも考えようともしていない上に、そのことのおかしさに気づいてもいない、(おそらく「公共」とはなんなのか、という感覚自体がわからない)様子には、驚愕さえします。
「なぜ東電は「耳かき1杯」にこだわるのか。「廃炉の進展をアピールするため」とみる関係者は多い。」
耳かき1杯は「工程表を意識」 完了に300年 廃炉の行く末は
https://mainichi.jp/articles/20240322/k00/00m/040/038000c